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このページは私の門下生専用です。未熟者である私がたいして偉いことは言えませんし、周りや門下生から教えられることも多いのですが、 日々門下生に接して思うこと、アドヴァイスしたいことを、折りに触れ 掲載していきたいと思っています。技術的なこともあればマインドの問題もあるでしょう。いずれにせよここに書いてあることは、私の門下生にのみ通 用することであり、他の先生方はまったく違うご意見を持っておられるかも知れませんので、私の門下生以外の方は参考になさらないことをお勧めします。 |
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一・身の回りのあらゆるものから感じ取る われわれが演奏する音楽のかなりな部分は江戸時代後半に作られたものです。ここに、その頃に描かれた絵、その頃に作出された園芸植物があるとします。あなたは、それらに私たちが演奏する音楽との共通 点を見い出せなければなりません。いや感じ取るといった方が正しいと思います。「興味がない」といってそっぽを向くならば、まだ自分が演奏する曲への理解も足りないと思います。 あるお城に行くとします。そこには戦後に復元されたコンクリートのものではなく、昔からの天守閣がそびえています。例えれば松本城のような。 城内に足を踏み入れて、郭の雰囲気や天守の外観に感興を覚えるのは当たり前。問題は登閣してからです。そうすると中はただ木材が組んであるだけでがらんとしている。そこで 「な〜んだ、何もないじゃないか」などとと思ってはいけない。ちょうなで削った当時からの柱に触れてみる。そこからその木の長い生い立ちを、そして切り、運び、削り、建てた人々を、更に柱となってからの時間の流れを感じてみる。想像だけでいい。そうすれば決して「何もない」などとは言えないはず。 われわれの音楽では1オクターヴを十二等分して音高を割り出しています。さて世の中に音以外で十二等分されるものをいくつ指摘できますか?またそれらと音楽の共通 点は? 以上挙げたものは日常からちょっと離れたものですが、われわれが注意を向けなければいけないものは、もっと近くの身の回りにもいくらでもあります。それらから何を感じ取ることができるか、どういう経路にしろどんなつながりがあるかを感じるということは、とても重要だと思っています。 |
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二・節穴の眼になるなかれ 「一」でお話したことは主に感覚的なこと、感受性の問題ですが、今度は知的な面 に関してです。楽器の習得というのは基本的に技術ですけれども、知識もおろそかにしてはいけないと思います。ある程度の基本的な音楽理論、歴史、他ジャンルの知識はもちろん、関連領域に幅広く知的好奇心を持ち、研究するべきです。「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは、あながちデタラメでもないと思います。一見何の関係もなさそうに見えるものが、じつは深いところで繋がっていたりすることもあるのです。世の中の事象はメロンの網目のようなものだと私は思っています。一生懸命に稽古をするのは何よりも大切ですが、そればかりではないのです。 そもそも「さくらそう」を配付しても読まずじまい、このサイトも「何だか色々字が書いてあって・・・」という程度にしか見ない人も少なくないと思います。しかし、本来ならこのサイトの隅々まで見尽して、どん欲なまでに吸収すべきではないかと思います。更に図書館で資料を調べるのも良いことでしょうし、ネットで検索するのもいいと思います。また三味線を習っている人が、たとえば胡弓に関してまるっきり無関心ではいけません。少なくとも同じ師匠が教えているものです。だいたい胡弓の演奏の中には、三味線演奏のヒントになるものが沢山あるのです。じっさい私の三味線演奏には、胡弓から得たものが随所に活かされています。私の胡弓、三味線の師である故青木嘉女野先生は、よく「胡弓を習うと三味線が上手になる」と仰っていました。私もそれは根拠のあることだと信じています。それを「私は三味線を習っているんだから胡弓は関係ない」と、みすみす逃してしまうのは、決して賢明とは言えませんね。そういう人の眼を「節穴」といいます。 稽古というのは、なにも面と向かってレッスンしているばかりではないと思うのです。もっといろいろな場面 から吸収していくものだと思います。ただ稽古の時だけ厳しく教えてくれればよいという人、結果 を焦る人には私の稽古は不向きです。時間をかけて、ふと気がついたら色々なことが自然と身に着いていた、恐らく私のやり方はそんな感じだと思います。ひたすら稽古稽古という人には得てして視野が狭い方が多いような気がします。眼を大きく見開いてよく注意を払い、見のがさず、一見関係ないと思えるようなことについても受け止め、考え、咀嚼して、自分の糧としてください。 |
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三、胡弓の形について 現在私のところでは、皆さんが新たに胡弓を購入する場合、基本的に棹の仕様など私が考案した形で製作されたものを買って頂くことにしています。その理由はただ一つ、弾きやすいからです。 しかし、中には昔ながらのオリジナル仕様にこだわる人もいます。私は自分の仕様を強制はしないので、もちろん従来の形のものを買っても結構です。 ただし、条件があります。オリジナル主義に徹するならば、三つの重要な点があります。この3点がクリアされている必要があります。 一つには、当時の楽器の仕様、奏法についてきちんと考証されていること。 二つ目に、曲の細部に至るまで伝承をきちんと正確に受け継ぎ、会得していること。 三つ目に、従来の仕様でも完全な演奏ができるだけの十分な修練を積み、完璧な技術を身に付けていること。 たとえば、近年クラシック界では特にバロック音楽など、当時の仕様の楽器、いわゆるオリジナル楽器を用い、当時の奏法、当時のピッチで演奏する人々が活躍しており、「古楽」と呼ばれ、この動きも今ではだいぶ市民権を得るようになりました。その響きはモダン楽器とは大きく異なり、かえって新鮮な魅力を感じますが、しかしそうなるためには彼らの大変な修練の積み重ねと、楽器の仕様、持ち方、奏法、表現などについての綿密な研究、考証があったということを忘れてはなりません。それでこそ人に訴える力を得るのです。 三絃や箏にしても、この百年間でずいぶんと仕様や奏法が変化しています。たとえば今われわれは「山田箏」を使用しますが、本来は「生田箏」を使っていました。また裏連などの奏法は昔とまったく違ったものになっています。三絃にしても、材質から棹の太さ、胴の枠木の厚さや丸みの具合、駒の作りなども相当な変化を遂げています。箏にしても三絃にしてもその変化の程度は胡弓の比ではないわけです。胡弓がもっとも変化していないといってもよいでしょう。箏や三絃がこれだけ変化してきているのに、胡弓にのみオリジナルを求めるのはおかしいと私は思います。逆に、胡弓に徹底したオリジナルを求めるなら、合奏の時にやはり三絃や箏にもその仕様から奏法まで、厳密なオリジナルの要求がなされねばなりません。でなければまったく不合理なオリジナル主義になってしまいます。 私はむしろ、邦楽においてもそういう綿密な考証がなされるべきと思います。ただし、演奏技術もともなわなければなりません。 弾きづらい楽器を思いのままに操ることが出来ないまま、演奏技術の拙劣さを安易に「妙味」にすり替えていてしまう人がいます。不安定なりに昔のままの楽器を使ってこそ胡弓らしいという主張です。もちろん私もそれには一理も二理もあると思います。基本的にその考えには同意します。しかし、ならば完璧な演奏技術の会得を目指すべきです。完全な芸の伝承を期すべきです。箏、三絃に対しても同条件の考証を行うべきです。でなければ、それは単なる過去への惑溺、自己満足、自己陶酔でしかありえません。「えせ胡弓弾き」への道は容易ではあります。
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