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C.アジア擦絃楽器の中での胡弓音楽の特徴 |
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アジアの多くの国では大衆音楽の中で擦絃楽器が大きな比重を占めているところが多い。特にインドや中国には、ここに挙げたもの以外にもきわめて数多くの種類の擦絃楽器があり、いかにこれらが愛好されているかがうかがえる。それに比べると胡弓は、かつて現在よりも盛んであったとはいえ、民俗芸能や民謡などに使われる頻度が決して高いとは言えない。 逆にいえば、アジアの擦絃楽器は多くが歌謡と密接な関係を持ち、基本的に歌唱、朗唱の伴奏に用いられてきたが、独奏楽器としての発展はあまりなかったと言える。たとえば胡琴にしても長い間歌謡や戯曲の伴奏として使われてきたのであり、独立した本格的な専門楽曲が作られるようになるのは20世紀に入ってからで、阿炳(本名華彦均、二胡演奏家、作曲家・1893〜1950)や劉天華(二胡、琵琶演奏家、作曲家・1895〜1932)らの出現を待たねばならないし、そこには西洋音楽の影響も考えられる。また北インドの代表的な擦絃楽器であるサーランギも本来は歌の伴奏用のものであり、やはり20世紀後半に入ってから名手ラーム・ナラーヤンによってはじめて独奏楽器として高められた。 ところが胡弓の音楽では逆に、歌の伴奏ももちろんではあるが、声楽の占める比重が極めて高い近世邦楽の中にあって、珍しく早くから器楽性が追求されてきた。擦絃楽器としては中国の奚琴より千年、朝鮮半島のヘグムに比べても4世紀も遅れて現れた胡弓だが、それから百年ほどの間に急速な発展を見せた。すでに18世紀中頃までにはいくつかの専門流派が生まれ、独奏曲である「本曲」が何十曲も作られた。その後の展開は断続的ではあるが幕末に至るまで続き、さらにこのような器楽性が特に地歌、箏曲にも影響を与えて、これらの器楽的発展を促す要因の一つともなった。今でも「鶴の巣籠」や「千鳥の曲」は有名である。このような発展の原因としては、後に述べるように尺八楽との交流にもよるものと考えられるし、江戸時代という平和で安定した時期が長く続き、経済、産業の発展や町人文化の発達と共に、音楽文化も大いに進展したことにもよるだろう。また胡弓を演奏したのが卑しい身分とされた門付芸などの人々ばかりでなく、社会的にも地位が低くなかった検校など専門盲人音楽家たちにも胡弓が取り上げられ、芸術音楽として磨かれ、彼らが盛んに活躍したことなど、様々な理由が考えられるが、いずれにしてもこの早い時期での専門独奏楽曲の成立、器楽性の高さは、他のアジア諸国の擦絃楽器とかなり異なる特徴である。 楽器の重要な特徴としては、弓毛が大変に長いこと、また毛を緩く張り、量が非常に多い(ただし民謡で使用される胡弓では短く毛の量も少ない)ことで、これは江戸時代前期の音楽家、八橋検校(やつはしけんぎょう)の改良によるものである。これにより響きにふくらみが生じ音色が柔らかくなり、また長い音価を一弓で奏することができるようになった。江戸時代中期には更に長い弓となる。このような弓は他のアジア諸国はもとより、ヨーロッパにも類似するもののない、日本独自の工夫である。 その他、現在でも絹絃を使い続けていること、猫皮を張ることについても、日本人が音色に対してきわめて強いこだわりを持ち続けているからであり、絹絃を捨てて金属絃を採用した中国の胡琴類とは対照的である。
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2.歴史概略 |
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江戸時代初期の日本音楽安土桃山時代、これまで平曲(平家琵琶)を専門としていた「当道」の盲人音楽家によって、中国から琉球を経て伝来した弦楽器「三絃」が改良されて三味線が生まれ、江戸時代のはじめにはこれによる新しい音楽が生まれていく。そして歌謡から舞踊、芝居の伴奏にいたる、幅広い音楽の需要に応え、三味線は近世の三百年を通じ、勃興する市民階級の新しい音楽表現の先陣を切る楽器としてもてはやされ、その音楽は大きな広がりと発達を見せることになる。 同じ頃、雅楽以来の伝統の上に明の琴楽の影響も受け、精神性を重要視する箏の音楽である「筑紫箏」が成立していたが、これを学んだ八橋検校により、より世俗的な芸術性に立脚した八橋流箏曲が生まれ、武士や上流市民層に広く受け入れられて行く。 更に、小型の尺八の一種と言える一節切(ひとよぎり)が流行、多くの曲が作られたほか、胡弓も登場して近世邦楽器の顔ぶれがほぼ出揃うことになる。 胡弓の濫觴期胡弓は遅くとも17世紀中頃には文献に現れる。室町時代末期の1540年頃に胡弓が現われたとする記述もある(「詳説総合音楽史年表・教育芸術社」)が、何を根拠にしているのか明確でない。 当初、多くは門付等の民俗芸能で使用されていた。たとえば、17世紀末頃から「相の山節」という門付唄が流行したが、胡弓、三味線、ササラの伴奏で歌って門付を行なうもので、これは寛文、延宝(1661〜1680)頃、伊勢神宮への参詣人相手に、道筋の間の山(あいのやま)で、お杉、お玉という辻芸人によって門付芸で演じられていた歌が江戸などの都市で流行歌化し、広まったものと言われる。 専門音楽家と胡弓このように初期の胡弓は民俗芸能などで使用されることが多い楽器であったらしい。しかし早くから専門音楽家たちにも演奏されていたようで、ごく初期の奏者の名として、中島九助、朝都(あさいち)の名がある。後者はその名によって、当道に属していた盲人音楽家であろうことが想像できる。また一説によれば三味線音楽の始祖である石村検校(?〜1642)も胡弓の名手であったという。楽器も徐々に変化していったようで、初期の頃の胡弓の絵では胴が円形に描かれているが、次第に三味線と同じ形態となったらしい。また弓も、それまで短く強く張られていたものを長くゆったりと張るよう改良したのは、近世筝曲の祖として名高い八橋検校(1614〜1685)であったと伝えられる。八橋と親交のあった藤本箕山が延宝6(1678)年に著した「色道大鑑」には「・・・むかしの小弓(胡弓)は弓の弦をいたくはりて引(弾き)もちいたり。小弓も八橋検校みづから考へて弓をなめらかに長く手づから削りてこしらへたり。弦を引はらずゆたゆたとゆるやかにのべて、無名指(薬指)にてひくやうにかけたり。其色音昔にかはり格別 なりき。・・・」とあり、八橋の改良によって胡弓の音色がそれまでとは大きく変ったことが分かる。これよりやや後、イタリアのコレッリはヴァイオリンの弓を強く張るよう改良し、更にタルティーニ、19世紀フランスのトゥールトなどにより、ますます張力の強い弓となっていった。胡弓の場合は弓毛の張力の点でまさにヴァイオリンと正反対の発展をしていったわけである。 なおヴィオールや胡琴など、弓を「下手使い」にする楽器では、薬指を弓毛にかけることが多く、ここにわざわざ「無名指にて」書かれたということは、下の初期の演奏図とも合わせて、胡弓の持弓法がはじめは「上手使い」であった可能性が高い。とすれば、当時、楽器を抱えて顎下に当てる持ち方に変り「上手使い」になっていたレベックとのつながりが改めて浮上してくる。18世紀までの錦絵には、門付や遊女の胡弓演奏図がしばしば見られるが、多くは「上手使い」である。これは絵描きのミス、または描画に際して胡弓の持弓法について様式化した描法があったからなのかも知れないが、別の見方として、すでに胡弓楽では「下手使い」になっていたものの、これらの民俗芸能においては、かなり後まで「上手使い」が残っていたからではないかとも想像できる。 当時の胡弓楽曲についてはほとんど分かっておらず、胡弓専用の本格的な曲が存在したかどうかも不明である。しかし八橋ほどの音楽家が胡弓にこのように関わりなおかつ名手とされている以上、彼による胡弓用の作品が存在していたとしても少しもおかしくはない。当時、箏曲や地歌三味線音楽は、八橋検校や柳川検校らによってすでに芸術音楽化が進んでいた。とにかく胡弓音楽に関しても、民俗芸能や流行歌のようなもの以外に、彼らのような盲人専門音楽家により、何がしかの芸術的洗練が施されていたことは充分に考えられるのである。 このようなことから、おそらく八橋らによる胡弓の曲も存在していたと思われる。ただ、残念なことに当時の曲はまったく伝えられていないし、楽譜も現在のところ見つかっていない。その後胡弓楽が確立し本格的に芸術音楽化していくのは、地歌三味線楽や箏曲にやや遅れ、江戸時代も中期になってからであると思われる。 いっぽう、正保年間(1644〜1648)に品川検校が品川流を創始したという言い伝えもある。これは八橋が検校となって活躍中の頃であり、この頃に胡弓の流派が生まれる可能性がないとは言えないが、この流派に関してはまったく資料がない。品川検校は後出する政島検校の師であるという。だが政島は1779年に没しており、この二人が師弟であったとするには年代に大きな開きが生じ計算が合わない。もし正保ではなく正徳(1711〜1716)あるいは亨保(1716〜1736)年間の誤りであるとするならば、さほど無理なく二人を師弟として関係付けることはできる。
B.江戸時代中期江戸時代中期の日本音楽江戸時代中期ともなると、 百年にわたる泰平の世を経て17世紀末から18世紀初頭、つまり元禄を中心として諸文化が興隆、音楽文化においても大きな成果が実を結ぶことになる。たとえば京都では生田検校が今日の箏曲の主流を占める生田流を創始、 大阪では野川検校が野川流地歌を興す。地歌はますます発展して、長歌、さらに端歌が多数作曲され、やがて手事ものも生まれて器楽的展開が始まる。 また一節切が衰退し、代わりに普化宗の修行楽器である尺八が世俗音楽化されて琴古流尺八音楽が生まれ、市民に広がっていくことになる。 その他竹本義太夫が新しい浄瑠璃(語り物三味線音楽)である義太夫節をあみ出し、その豊かな表現で一世を風靡した。以降一中節、河東節など三都で多くの浄瑠璃が生まれ、劇場音楽として発展して行く。いっぽう江戸では佐山検校が歌舞伎舞踊の伴奏音楽である長唄の祖型を作り出していた。長唄はその後歌いもの系劇場音楽の代表として発展を重ねて行くことになる。 胡弓音楽の芸術的発展中期には胡弓も、先にも挙げた民俗音楽や大衆音楽の形で、すでに一般的な楽器として広く普及しており、一般人や遊女などにも名人がいたことが文献によって知られるが、同時に、近世邦楽の先導者であった盲人音楽家たちの手により、音楽的に洗練され、次第に芸術音楽としての形を整えて行ったものと考えられる。 地歌との関連もともと胡弓楽は、地歌、箏曲と共に当道の盲人音楽家によって発展してきた音楽である。そして中期にはこれらは次第に一体化して、不可分の存在となっていく。 箏曲は江戸初期には組歌、段物が整備されて発展したが、元禄頃になるとマンネリ化し停滞し、新作も少なくなってしまった。一方地歌は長歌、端歌、手事ものなど新たな形式を生み出しつつ発展していた。そこで生田検校は箏を地歌に合奏させることを考案し、爪の形を改良して現在の生田流の基礎を作ったといわれる (ただし三味線との合奏をはじめたのは生田だけではないともいわれる)。こうして箏曲は幕末までの間、地歌に便乗し合奏することで発展することとなる。 胡弓楽はむしろ江戸中期に発展したが、本曲が作られた以外にやはり地歌に合奏することも多く、胡弓の発展を考える上でそれを無視することはできない。また後に述べるように、逆に胡弓楽の「巣籠」「獅子」といった器楽的要素が地歌に取り入れられ、箏曲からの「段物」「砧」といった器楽的要素と共に「手事もの」発展のひとつの要因になっていることも重要である。 専門流派の誕生−胡弓楽の成立こうして胡弓音楽は箏曲、地歌三味線楽とともに、盲人音楽家たちによって芸術的に大成されていくことになる。やがてその中から胡弓を表看板にする演奏家が現れるようになり、ついに専門の流派を生み出すこととなった。16世紀後半には大阪の品川検校が品川流を興したという伝承もあるが、はっきりしない。しかしその弟子である大阪の政島検校(?〜1779)創始による政島流は確実に存在した。一方江戸では18世紀中頃に藤植検校(1736登官)が藤植流を立て(宝暦年間)、それぞれ独自の胡弓独奏曲である「本曲(本手組)」を作曲、整備、体系化(藤植流は「鶴の巣籠」「岡安砧」など現行14曲、政島流は「空蝉曲」「屬花曲」「真巣籠曲」など 25曲)し、また地歌、箏曲に三曲合奏のかたちで参加することで「外曲」のレパートリーも増えた。こうして江戸、上方で胡弓楽がひとつのジャンルとして成立する。 胡弓本曲の重要な特徴は、それまでの三味線や箏の音楽がほとんど声楽曲であるのに対して、基本的に器楽曲であるという点である。これを「手事(てごと)」、「手」と呼ぶ(ただし形式的に短い声楽部分が付属する曲が多い)。これは胡弓が持続音の楽器であることや、後にも述べるように尺八楽との交流にもよると思われるが、声楽が圧倒的に多い江戸時代の音楽の中において、胡弓本曲は尺八本曲、箏曲段ものと共に器楽的傾向を強く持つという点で、きわめて貴重な存在である。また、地歌三味線楽において18世紀頃から器楽性を重視した「手事もの」形式が発展するが、一つの要因としてこのような胡弓本曲が影響を与えているとも考えられる。 本曲以外でも、政島検校が笛の曲を胡弓に移し、それを政島の三絃の師である藤永検校が三味線に移した「八千代獅子」はこんにちでも広く演奏されるが、初期の手事ものの典型的な曲である。 この時期は京都、大阪において地歌三味線音楽の器楽的発展が始まり、一方江戸では山田検校により山田流箏曲が生まれるなど、近世日本音楽が発展の頂点にさしかかろうとしていたが、このように胡弓音楽もみずからも発展しつつまたそれらと強く関わることで、より高まっていったということが言えるだろう。楽器の改良も行われ、藤植検校は独特の四絃胡弓を考案し、新たな音楽表現を開拓した。学者として「群書類聚」の編纂で有名な塙(はなわ)検校保己一(ほきのいち・1746〜1821)も胡弓の名人であったとする文献もある。 寛政7(1795)年には政島検校の孫弟子にあたる森岡正甫が大坂から江戸に下り、政島流を広めた。 当時(1790年代から1810年頃まで)の上方における胡弓演奏図を見ると、四絃のものがしばしば見受けられる。つまり、関西においても系統によっては四絃胡弓が使用されていた可能性が高いと言える。このことから江戸の藤植流との何らかの関連も考えられる。 そもそも政島流を名乗ること自体、彼が始めたことかも知れない。そしてそれ以前を品川流と呼んだ可能性もある。森岡は文化8(1811)年に、現存する胡弓専門書としては最古の「政島流本手組掃弓雅吟集」を発刊した。 また、森岡は鍼治師でもあったというからやはり盲人であったと思われるが、「検校」などの盲官位を名乗らず、名も市名(いちな =「当道(とうどう・多くの盲人音楽家が属した盲人自治組織の一つで、もっとも大きなもの)」の盲官が名乗った名前。たとえば山田検校は斗養一<とよいち>、光崎検校は富機一)でもないから、当道に属していない盲人であったのかも知れない。その師井上文庄(つまり政島検校の弟子)も同様である。また政島検校の息子弥兵衛も胡弓をよくしたが、これは晴眼者であった。政島の流れは、このようにセミプロ的な人々に担われていたふしがある。 その後政島流は伝承が断絶してしまったが、藤植流は初代藤植検校以後、幕末まで五代にわたり家元が「藤植」の名を受け継ぎ伝えられ、更に三代を経て今日まで継承されている。大阪でも政島流の伝承は絶えたが、胡弓の演奏そのものは今日まで行なわれており、大阪系として多くの外曲と共に「鶴の巣籠」一曲を本曲として伝えている。 彼ら以外にも、18世紀末から19世紀初頭にかけ、京都の腕崎検校(1809年登官)が名手として知られていたことが当時の文献に残されており、彼は腕崎流という一流を興したとも伝えられるが、その点に関しては明確ではない。ただし、直接の伝承関係についてははっきりしないが京都にも独自の胡弓の伝承があることは確実であり、現在その流れは「腕崎流」を名乗っている。 いっぽう尾張には関松翁が出て、この流れが松翁流となる。のちに江戸に伝承され、山田流筝曲の大家でもある山登(やまと)検校(1780〜1863)をへて、幕末の山沢勾当(1793〜1867)により整備、大成された。この流れは本曲を持たず、山田流箏曲の歌もの曲の伴奏、つまり外曲専門として特化している。 尺八楽との交流また胡弓楽の発展とほぼ時を同じくして、宗教音楽から世俗芸術音楽へと発展をみせていた尺八音楽(今日の主要尺八流派のひとつである琴古流の祖、初代黒沢琴古<?〜1771>も藤植検校らとほぼ同時代の人である)との交流も断続的に行われた結果 、胡弓本曲には「鶴の巣籠」など尺八本曲と共通する曲名や旋律型が存在する。また藤植流で使用される記譜法は尺八のそれに類似していることも、尺八との交流を物語っている。尺八だけでなく、先にも挙げた「八千代獅子」のように笛から移された曲もある。また尺八発展以前の江戸時代前期には、一節切(ひとよぎり)というやや短い類似管楽器が流行しており、尺八の擡頭と共に衰退したが、一節切の曲はかなり尺八に吸収されているし、古図には胡弓と一節切を合奏しているものも見られるので、初期胡弓との関連も充分に考えられる。
C.江戸時代後期江戸時代後期の日本音楽江戸時代後期の18世紀末から19世紀中頃、つまり寛政から文化、文政、天保を経て幕末にかけて、地歌箏曲の世界では「端歌もの」全盛の一方で、大阪の峰崎勾当、三橋勾当、京都の松浦検校、石川勾当、菊岡検校、八重崎検校、光崎検校、幾山検校ら優れた音楽家たちにより「手事もの」の大成、つまり地歌三味線音楽の器楽的発展が頂点に達し、複雑多様な合奏法が追求され、多数の名曲が生まれた。 いっぽう江戸では山田検校が浄瑠璃様式の歌中心の山田流箏曲を創始、大いに栄える。そのほか劇場音楽として長唄や富本節、清元節、常盤津節などの各派浄瑠璃が発展、一方で歌沢なども生まれるなど、江戸での文化の進展により音楽面でも上方と江戸の美的特色の違いが顕著になる。また幕末には国学の影響により一絃琴や二絃琴が興り、他方では中国より長崎を介して伝えられた明清楽が流行するなど、江戸時代後期の日本音楽はきわめて多彩な展開を見せている。 三曲合奏の発達と吉沢検校の活躍これら地歌三味線、箏に胡弓が加わる「三曲合奏」が上方、名古屋、江戸と広く行われ、絵にもしばしば描かれている。箏、胡弓、尺八という組み合わせもあった。 地歌三味線楽、箏曲、胡弓楽は、いずれも盲人音楽家の専門とするものだが、本来別個の音楽であり、これらの音楽が確立される前の江戸時代初期にはそれぞれの楽器が合奏されることはあったが、本格的に地歌や箏曲が確立してからしばらくの間は、異種楽器間の合奏は、表向きには行われなかった。本格的な芸術音楽として異種楽器間の合奏が行われるのは、元禄時代に至ってからで、生田検校が地歌曲に箏を合奏させたのが始まりと言われる。以後、三種の音楽の交流が進んだ。ただし、当時は「ベタ付け」と呼ばれる、同じ旋律を合わせるユニゾン方式であった(同じ楽器同士では、すでに「替手」という合奏用パートが作られていた)。文化年間に至って、大阪の市浦検校が、当時輸入されたオルゴールの音楽にヒントを得て、三味線の原曲と離れた箏の旋律を作り合奏させるようになり、これを京都の浦崎検校や八重崎検校、光崎検校、幾山検校らが発展させ、器楽的発展と相まって、三味線と箏はかなり強い結びつきを持つようになり、きわめて複雑精緻な合奏音楽となっていく。ただし胡弓の場合は、まだユニゾンで三味線ないし箏の旋律をなぞることが多かったらしい。むしろ歌や撥絃楽器の音の邪魔をしないよう、目立たぬようにユニゾンで曲に隠し味的な色付けをする感じが好まれた。もちろん、それはそれで一つの音楽表現として難しいことではあるが、胡弓が地歌や箏曲に加わる合奏において、独自の旋律を付され、三味線や箏と対等な立場となるのは、吉沢検校に至ってからである。
また、地歌三味線楽や箏曲に常に胡弓が合奏されるわけではなかった。これは箏にしても言えることである。三曲音楽の合奏における楽器の編成には自由さがあり、たとえば原曲のみの独奏でも良いし、同じ楽器同士の本手、替手合奏でもよく、二種の楽器、三種の楽器の合奏としてもよい。また替手や原曲に対する別楽器の手には、同じ曲でも複数の編曲者による異なった手がある場合すらある。 特に上方の地歌三味線楽で発達した、器楽部分を重視する手事ものについては、三味線と箏との結びつきほどの強さはなかった。その一つの原因として、度重なる転調が頻繁となったこの時代の手事もの曲に、胡弓が調弦の点で完全に対応するのが難しい面があること、また極度に高度化した三味線の技巧に対応できる胡弓奏者が多くなかったとも考えられる。またたとえば三味線の原曲に対して箏のパートの場合は大阪の市浦検校、京都の八重崎検校らの手付が有名であり、それがかなり固定化して後に伝えられて行くが、胡弓パートの場合は即興的な面が強かったり、個人的な手付が行われてもそれが一代限りで伝承されずに終わってしまい、固定化しなかったりすることもあったようである。これは、西日本の胡弓に「口唱歌(くちしょうが・楽器の音、技法を擬音的に言葉で表わして習得、記憶の手助けとするもの。箏のコーロリン、三味線のチントンシャンなど)」のようなものがなかった点もあるかも知れない。このような外曲における胡弓の手が固定化するのは、やはり次に挙げる吉沢検校の功績が大きい。 ただし江戸の山田流箏曲では、あくまでも歌が中心であり、これらの点はあまり問題とはならず、藤植流、松翁流の胡弓が加わり三曲合奏とすることがかなり普通であったらしい。
と同時に、これまでずっと江戸時代の音楽発展をリードして来た三味線の技巧や複雑な作曲法が頂点に達して行き着くところまで行った感があり、後発の箏や胡弓を改めて見直す動きが生ずるようにもなって来た。また作曲のスタイルにも新たな傾向が生まれてくる。 この時期、名古屋に吉沢検校 (1800〜1873) が現れ、「千鳥の曲」「蝉の曲」など、箏曲や地歌曲ばかりでなくいくつかの優れた胡弓の名曲を残した。のみならず、たとえばこれまで地歌曲、箏曲つまり「外曲」の胡弓パートは、後から作曲者とは別 な人物により手付されていたが、吉沢は「玉くしげ」「深山木」などいくつかの自作曲において三絃、箏、胡弓の各パートすべてを一人で手掛けた。これは後の宮城道雄などの先駆けとなる画期的なことである。更に既存の地歌曲、箏曲への胡弓手付も音楽的に大変優れており、技巧的にも高度で、手事で胡弓が主奏部となるよう編曲された「屋島」、替手式に作られ、原パートと複雑にからみ合う「六段の調」「玉川」など、これまで外曲に関しては三味線や箏に対して従属的、添え物的存在であることが多かった胡弓を、音楽的に対等、場合によっては主役にまで引き上げた。 一般的に吉沢検校の功績として、古今組、新古今組の作曲により三味線から離れ新たな箏曲スタイルを開拓したことばかりが喧伝されがちであるが、このように胡弓音楽を高めたという点でも彼の功績はじつに多大であるということができる。この吉沢検校の胡弓の流れを「名古屋系吉沢派」と呼び、「鶴の巣籠」「千鳥の曲」「蝉の曲」を本曲とし、多くの外曲と合わせ、今日まで名古屋の国風音楽会に伝承されている。特にこの系統では、外曲ですら、胡弓に三味線、箏とほぼ同等の地位 を与え、技巧的にも独自の発達を遂げていることは特筆すべき特徴である。 大阪では、政島流の消息が途絶えてしまう。それはおそらく文化から天保にかけてのことと思われる。おそらく進取の気風が強い大阪では、そもそも政島検校の頃には、同輩である鶴山勾当らによって地歌端歌(はうた=多く叙情的な短い歌曲)ものが盛んになり、膨大な数の端歌曲が作られたこと、さらに18世紀末には峰崎勾当らの出現によって地歌手事ものが大流行し三味線音楽が器楽的に発展を遂げはじめたことにより、検校達の音楽的関心がそちらの方に集中し、胡弓を顧みる余裕もなくなってしまったのだろう。政島自身三絃の名手としても知られており、地歌の作品もいくつか残されている。 ただ天保年間(1830〜1844)に大阪の厳得(あるいは岩哲)という人が、尺八本曲の「鶴巣籠」を胡弓にアレンジし、それが吉沢検校に伝えられたものが名古屋系胡弓本曲「鶴の巣籠」であるという。吉沢検校によるアレンジが相当あるとしても、これはかなりな技術を要する曲であり、相当胡弓に堪能でなければこのような曲を演奏することは困難であり、また厳得という名前からしても市名ではなく、森岡正甫やその師井上文庄と共通性があり、この厳得が政島の流れを汲んでいた胡弓家である可能性がある。また、名古屋系胡弓本曲の「蝉の曲」にしても、吉沢検校が作曲する前に原型となる曲があったらしく、一方で「政島流本手組掃弓雅吟集」に政島流本曲として「空蝉曲」の名があり、これが「蝉の曲」の原型であるとすれば、やはり厳得から伝えられたのかも知れない。こんにち大阪に伝承される「鶴の巣籠」は名古屋系のものとは異なる曲だが、政島検校と筋を同じくする人々によって伝えられて来たので、これは政島流本来の曲がわずかに大阪に残されたものと考えられる。 また、本来器楽曲である胡弓本曲のメロディが、地歌手事ものに取り入れられて部分的に残っている曲もあるかも知れない。
D.胡弓楽以外の展開、琉球の胡弓、アイヌのウンマトンコリ、明清(みんしん)楽の胡琴類江戸時代には地歌三味線楽、箏曲、胡弓楽、尺八楽のいわゆる「三曲」ばかりでなく、多様な音楽が発展、また従来の上方だけでなく、新興の江戸でも特色ある音楽が生まれ栄えた。のみならず全国各地で地方色豊かな音楽文化もまた育まれた。特に三味線音楽は分派を繰り返し多くの種目が生じて行く。こうして、室内音楽としては三曲以外にも江戸端唄、歌沢、小唄、二絃琴楽、一絃琴楽、中国から流入した明清楽などが、また劇場音楽としては長唄や、宮園節、富本節、一中節、常磐津節、清元節、新内節、河東節などの諸浄瑠璃が興隆、発展する。地方では鹿児島の薩摩琵琶や高知の一絃琴などの展開も見られる。また江戸時代に入ってからの発展はないものの、古代の雅楽や中世の平曲、能楽など古い時代の音楽も引き続き継承されていた。三曲以外、以上に挙げた音楽で胡弓が使用、合奏されることはないが、義太夫節など一部の劇場音楽では胡弓が用いられることがある。また胡弓ではないが、明清楽において擦絃楽器として胡琴、提琴が使われた。 劇場音楽における胡弓胡弓楽とは別 に、劇場音楽の中で部分的に胡弓を使用することもあり、特に浄瑠璃の義太夫節ではしばしば用いられる。「阿古屋の琴責」(「壇浦兜軍記」三段目の一部。亨保17<1732>年初演) など、かなりな技巧を披露するのを見せ場とするものもある。これらの場合、胡弓の演奏は義太夫節の三味線奏者が行う。「阿古屋の琴責」は実際の演奏に合わせ、それとまったく同じように人形が胡弓、三味線、箏を弾きこなす振りが見せ場で、のちに歌舞伎にも取り入れられ、こちらも役者が胡弓をはじめ三種の楽器の腕前を披露する芝居として有名である。人形浄瑠璃、歌舞伎共に今日でもしばしば上演される人気演目である。 また歌舞伎でも下座音楽(歌舞伎音楽のうち、舞台下手にある「黒御簾」の陰で演奏される囃子)として、特に相愛狂言で「相の山」や「ひなぶり」がよく用いられた。これら劇場音楽では、胡弓楽での幅広い表現追求とは違って、たんに胡弓の音色を悲哀に満ちたものとして捉えており、胡弓がそういった情感表現のための色づけとして使用されるに過ぎない。このような胡弓観が、胡弓といえば音色を哀しげなものと決めつける一般的風潮を支配し、固定観念化させてしまったと考えられないこともない。 民俗芸能の胡弓また江戸時代初期から始まった門付をはじめ、各地の盆踊り、祭の囃子など、民俗芸能に胡弓が使われることも少なくなく、例えば三河地方(現愛知県東部)や知多半島では農民の冬の副業として胡弓や三味線による萬歳の門付を行う所があり、明治の末頃までかなり広い範囲にわたって活躍していた。また春駒の門付や、鹿児島県大隈の「八月踊」、大阪の盆踊り、信州高遠町の祭の囃子、鳥取の人形芝居にも胡弓が加わっていたり、越後の瞽女(ごぜ)も胡弓を奏しており、日本各地で幅広く使われていたことが分かる。民謡での使用例はあまり多くないが、津軽では胡弓のことを「バンコ」と呼び民謡の伴奏に用いたし、今に残る、富山県八尾町で行われる「風の盆」の「越中おわら節」、同県五箇山の「麦屋節」、大分県の「鶴崎踊り」なども胡弓入り民謡の例である。「越中おわら節」に胡弓が入るのは明治以降であり、越後瞽女の影響と言われる。これら諸芸能が、江戸時代初期の胡弓を使った民俗芸能とどのようなつながりを持つのかについては、まだ不明な点が非常に多い。全体的に見れば、このような民俗芸能においては東海地方を中心として三河、伊勢、信濃、越中、越後など中部地方に胡弓を使用する例が多く、胡弓楽において名古屋によく伝承が残っていることと何か通ずるものがあるのかも知れない。なお、幕末から戦前にかけて、四絃胡弓が藤植流胡弓楽だけではなく門付などにも使われていたようである。 琉球の胡弓琉球では、本土とはまた形の違う胡弓(「くーちょー」と発音)が宮廷音楽で使用されていた。詳しい来歴、伝承は分からないが、尚泰王の治世(在位 1847〜1879)に活躍した安慶田親雲上などの奏者が知られており、今日まで伝承されている。 アイヌ民族のウンマトンコリいっぽう、北海道のアイヌの人々の間では、ウンマトンコリという擦絃楽器が使用されていた。これは一本絃、筒型胴を持つもので、形状的には胡弓より胡琴に近いが、棹の先が胴から長く突き出している。もともと樺太の先住民であるニブフ(ギリヤーク)、ウィルタ、ウルチ、樺太アイヌの楽器であったものが、サンタン交易により北海道アイヌにも伝えられたものらしい。 明清楽の胡琴、提琴近世、中国からは長崎を通じ琴楽、箏曲などが伝えられたが、その他に17世紀初期に明の民間音楽が長崎に入り、明和年間(1764〜1772)には京都にもたらされて一部の人々に愛好された。これを明楽(みんがく)と呼ぶが、ここでは擦絃楽器は用いられていなかったようである。また文政年間(1818〜1830)には清の民間音楽が伝来し、長崎から三都をはじめ各都市にも広まった。これを清楽(しんがく)と呼び、明楽の一部をも吸収して盛んとなり一世を風靡した。これらを合わせて明清楽という。清楽でもっともよく使われた楽器は月琴だが、その他に胡琴、提琴、携琴(現在の二胡、京胡などと同類の楽器)などの擦絃楽器や琵琶、明笛(みんてき)なども使用され、一時はかなり流行し明治中期頃まで行われたが、日清戦争の勃発と前後して急速に衰微した。「工尺譜」と呼ばれる独特の記譜法による楽譜もたびたび出版されている。しかし明清楽は日本的に昇華、芸術化されることなく、あくまでも外来の音楽として愛好されるにとどまり、多少流行歌化したり、部分的に民謡に取り入れられたり、月琴の伴奏で歌う「月琴節」が行われたりしたものの、本格的に我が国独自の発展につながることもほとんどなく終わった。ただし明清楽の音階が、幕末、明治の新しいスタイルの箏曲に影響を与えている例もあることが指摘されている。あるいは、藤植流胡弓本曲のひとつ「唐子楽」などもその影響を受けている可能性もある。こんにち明清楽は長崎にわずかに伝承され、胡琴も演奏されている。 昨今の二胡ブームも第三次明清楽ととらえることができるかも知れない。
E.明治時代〜現代明治時代には「文明開化」の名のもとに西洋文化が怒濤のごとく流入する。西洋文化を礼賛するあまり、極端な西洋化が行われた時期もあった。為政者たちが反徳川勢力出身であったこともあり、場合によっては江戸時代の文化を否定したり、西洋文化に比べて日本の文化を劣ったものとして決めつける風潮も強かった。音楽も例外ではなく、学校教育にも西洋音楽が大幅に取り入れられ、日本の伝統音楽は次第に音楽教育から閉め出され、西洋音楽一辺倒となって行く。この後多くの演奏家や音楽学者の努力により、日本の伝統音楽も復権して行くが、太平洋戦争で日本が敗退して自虐史観が強まり、日本の伝統文化を軽視、蔑視する風潮が再び強まった。やがて日本が経済的に発展を遂げ、自国の文化に対する偏見も少なくなりつつあり、ようやく学校教育にも日本の伝統音楽、楽器が取り入れられるようになった。しかし、このような音楽における西洋文化至上主義は、現代でも完全に消滅したわけではない。 明治時代、それまで三百年近い海禁の中で独自の発展を遂げた日本の伝統音楽(邦楽)と、ロマン派の盛期にあった西洋音楽とでは、美意識や価値観が非常に大きく異なっていた。したがって両者が歩み寄り、あるいは互いの要素を大きく取り入れたりすることは容易なことではなかった。しかし邦楽の世界でも徐々に西洋音楽の要素が取り入れられ、箏曲における「明治新曲」等が生まれ、やがて宮城道雄によって西洋音楽の作曲法、楽曲形式、合奏法等が大幅に取り入れられ、新しいスタイルの邦楽が確立された。一方西洋音楽でも、少しずつ邦楽の要素を取り入れた作曲が行なわれるようになって来た。また和楽器、洋楽器を折衷したキメラ的な楽器も種々試みられた。 胡弓音楽の衰退−三曲合奏への尺八の参入明治10年代、音楽の研究のために設立された音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり・1879年設立、後の東京音楽学校)が、音楽教育のために「教育用胡弓」を考案したが、間もなくヴァイオリンなどが導入されたため普及せず、一般には次第に胡弓の演奏者が減少してゆく。このきっかけとして、これまで表向きには一般人の演奏が禁じられていた尺八が解禁され、急激に尺八が普及、胡弓の代りに三曲合奏に加わるようになったという背景があった。もちろん実際には江戸時代にも尺八は一般人に演奏されていたし、特に関西では三曲合奏に加わることもあった 。しかし本格的な尺八入り三曲合奏については、幕末、大阪の明暗流尺八奏者である近藤宗悦(1820〜1866)が試みたのが始まりという。宗悦はやがて三曲合奏をもっぱらとするようになり、まず関西において尺八入り三曲合奏が一般化していく。 もともと多くの盲人専門音楽家は三絃、箏、胡弓、歌(場合によっては平曲も)の演奏を兼業することが多く、技巧が発達しまた大量の曲が作られた幕末以降には、それらをすべてこなすことはいろいろな意味で大変なことであった。当時最も主要な存在であった楽器は何といっても三味線で、胡弓はどちらかといえば脇役的存在であり、また技術的に擦絃楽器としての別の難しさがあり、箏は弾けても胡弓まで堪能な人はそう多くなかったであろうと思われる。まして、長らく盲人に様々な優遇、保護を保証して来た「当道」制度が明治4年に廃止され、検校、勾当などの盲人官位もなくなり、盲人音楽家たちの生活も厳しいものになったことが想像される。経済的に言っても多種類の楽器を同時に持ち維持することは楽なことでなかったであろう。実際東京でも大阪でも、一時はかつての検校が寄席にまで出て演奏したり、大衆受けを狙った曲作りを余儀なくされたりしたという。 一方、尺八界にも更に大きな変化の波が押し寄せていた。やはり明治4年には普化宗、虚無僧制度が廃止、尺八の演奏も禁止されかけ、これまで一応専業が保証されて来た尺八家たちは存続の危機に立つことになる。そこで尺八演奏家の吉田一調(1821〜1881)、荒木古童(1832〜1908)が尺八一般化の運動を興し、近藤宗悦の流れに習い、多くの地歌曲、箏曲に尺八の手付を行い、三曲合奏に積極的に参加するようになる。 これは、当道も普化宗も徳川幕府とのつながりが強かったため、反徳川勢力が中心であった明治政府に忌避されたということであるかもしれない。 こうして双方の事情による歩み寄りにより、胡弓がはじき出される形になり、三曲合奏と言えば尺八入りが主流となって行く。しかし胡弓入り三曲合奏がまったくなくなってしまったわけではなく、東京、名古屋においてはかなりよく行われており、特に東京の山田流箏曲では藤植流、松翁流の胡弓入りの三曲合奏の方がいまだ一般的であったし、名古屋でも吉沢検校の流れを汲む吉沢派、寺島派の人々が胡弓を演奏した。日本音楽史において明治以降胡弓入りの三曲合奏がほとんど行われなくなったという記述を目にすることが多いが、決して正しいとは言えない。もちろん胡弓の伝承が絶えてしまったわけもなく、やがて胡弓楽は大坂系、京都系、名古屋系、東京の藤植流及び松翁流の五つの流れにほぼ収束され、それぞれ今日まで伝承されることとなる。
また、明治から昭和初期にかけ、地歌、箏曲、長唄などがヴァイオリン用に編曲され、東京、関西、九州等の邦楽、洋楽系の楽譜出版社から楽譜が多数刊行されている。これらを編曲したのは主に尺八家だが、技巧の平易さを狙ったものか、ヴァイオリンで演奏しやすい調に移調してあり、またパートとしてはほとんど原旋律のままである。そのためか版を重ねてよく出版されたらしいが、戦後にはこれらの楽譜はほとんど出回らなくなった。結局、洋楽器が古典邦楽の世界に本格的に参入することはなかったといえる。それは、日本音楽と西洋音楽では基本的な調、音律の違いや、また音楽の表現、楽器の音質に対する価値基準が大きく異なっているためもあり、安易に合奏してみても決してよい結果が得られなかったからであると思われる。しかしこのように、門外の存在であるヴァイオリン用の古典邦楽楽譜が多数出版され、いっぽう本来あってしかるべき胡弓楽譜の刊行が一、二例だけにとどまっていることは、まことに皮肉である。
この時期の名手たちと新作曲明治以降から戦前を中心に活躍した箏曲や地歌の演奏家の中で、胡弓の名手としても知られた人に、九州の松岡光雄(1858〜1936)、京都の山口巌(1867〜1937)、大阪の二代目菊地検校、菊原琴治(1878〜1944)、菊仲米秋(1883〜1952)、名古屋の小松景和(吉沢派・1847〜1917)、寺島花野(寺島派・1855〜1920)、東京の町田杉勢(松翁流・1843〜1929)、平岡藤千、山室保嘉(藤植流・1839〜1907)、山室千代子(藤植流・1875〜1951)などがいる。 しかしこの時期の作曲では、幕末までにあらかた技巧の開拓がし尽された三味線に代わり、後発であった箏が次第に先導役となって行く。上方での箏は元禄頃の生田検校以来、三味線との合奏に主流が移り、いっときは箏独自の作曲もなく、ながらく三味線に対し従属的な立場であったが、次第に技巧的に発達して幕末にはほぼ対等の存在となり、京都の光崎検校や名古屋の吉沢検校らにより三味線抜きの箏独自の曲も再び作られるようになっていた。江戸を中心に東日本を席巻した山田流箏曲は始めから箏優位であったが、やはり曲調としては一中節、河東節、富本節などの、三味線音楽である浄瑠璃を取り入れたものであった。 こうして明治以降は箏のための作曲が圧倒的に多くなって行き、生まれた新しい箏曲群を「明治新曲」と総称する。ことに大阪において多数の曲が作られ、多くは江戸時代後期に完成された「手事もの」形式を踏襲し、四七抜き音階や明新楽の音階を取り入れ、従来の都節音階と折衷させた調弦法を用い、明朗、清新な曲調が特徴である。 こうした事情に加え、先に挙げた尺八の進出にもより、胡弓楽としての胡弓専用楽曲はほとんど作られなかった。ただし寺島の「白菊」、高野茂の「大内山」、小松の「清少納言」菊原の「摘草」、富崎春昇の「春の江ノ島」、山室千代子の「静御前」など、明治から昭和前期にかけての箏曲作品のいくつかにも胡弓の手がつけられていることもあり、中にはそれも作曲者自身により行なわれているものある。またその中でもいくつかは技術的、表現的にも高度なものがあって、この時期の胡弓曲として貴重なレパートリーとなっている。 胡弓手ほどき書「胡弓之栞」の刊行明治27(1895)年には、胡弓としては始めての一般向け手ほどき書「胡弓之栞」(百足登著・「百足」を「ももたり」と読む人もいるが、本人は同書の一連のシリーズ「音楽全書」の別本中で「むかで」とルビをふっている)が発行された。箏や三味線の教本、楽譜は江戸時代前期から出版されているが、胡弓の刊行物としては先にも挙げた文化8(1811)年刊の「政島流本手組掃弓雅吟集」が現在知られている限り最も古いものであるものの、歌詞のみで楽譜は掲載されておらず、刊行胡弓楽譜、教本としてはこの「胡弓之栞」が最古となる。さまざまな曲が収録されており、アマチュア向けの手引書として、胡弓普及のためによく考えられているが、本格的な楽曲がほとんどないのが惜しまれる。
新しいスタイルの邦楽と大胡弓、玲琴の登場新しい日本音楽の道を拓いた筝曲家、宮城道雄(1894〜1956)は、昭和2(1926)年に従来のものよりもほぼ5度低い大型の胡弓(通称宮城胡弓、大胡弓)を考案、「韮露調」「秋の韻」「阿寒湖のほとり」「越天楽変奏曲」「夢殿」「荒城の月変奏曲」「暁の海」「ワンワンニャオニャオ」など多くの自作曲の中で積極的に使用し効果 を挙げている。宮城自身も胡弓の演奏に堪能であった。またそれに先立ち大正10(1921)年には音楽学者田辺尚雄(1883〜1984)の考案による玲琴(れいきん)が生まれ、最低音用胡弓として、一時は「新日本音楽」の中で盛んに使用された。これは宮城道雄に始まり、邦楽に西洋音楽の楽式や作曲理論、合奏法を取り入れて作曲された室内楽的合奏曲や独奏曲、管弦楽曲、声楽曲で、大正末から昭和十年代にかけ数多くの曲が作られた。特に町田嘉聲(1888〜1981・「東京組曲」「薄ら日」「佐渡の印象」その他)、金森高山(「富士山を望む」「清姫」「ゆく春」など)、久本玄智(「初夏の印象」「祝慶調」など)、中塩幸祐(「仙慶楽」など)などが、玲琴や大胡弓を使用した合奏曲を数多く発表している。これらの作品では様々な楽式や楽器の編成が試みられ、一時は非常に盛んであったが、太平洋戦争の勃発、深刻化とともに沈静化を余儀なくされた。戦後、これらの曲は宮城作品以外めったに演奏されることがなくなり、また戦後に作られた合奏曲では、いずれも最低音部はほとんど十七絃箏が受け持つことになっており、玲琴を用いた曲は極めて稀である。 この、大正から昭和十年代にかけては戦前文化の興隆期で、新日本音楽の進展と共に、玲琴や大胡弓の他にも、低音箏の十七絃箏や八十絃箏(共に宮城道雄考案)、金属製でキーのついた尺八であるオークラウロ、低音三味線である豪絃、低音筑前琵琶大絃などから大正琴、ムーンライトなどさまざまな楽器が考案された。 戦後の名手たちと新たな動き戦後は、名古屋の横井みつゑ(1909〜1990)、三品正保、大阪の初代菊田歌雄(1879〜1949)、東京の山田広代(藤植流)などが名手として知られている。また大胡弓では宮城会の塚越清子が活躍した。他に三絃、箏曲のかたわら胡弓に堪能な人も少なからずいたものの、全般に胡弓の演奏活動は盛んでなく、また新作曲も少ない状況であったが、松本の青木嘉女野(名古屋系吉沢派、横井門下・1903〜1986)が昭和48年に胡弓としては初のリサイタルを東京で開催するなど演奏活動を続け、古典胡弓曲の楽譜化や新曲作曲の委嘱、また多くの門弟を育成するなどして胡弓の伝承、普及、発展に尽くした。 以後、名古屋では今井勉らが横井の跡を受け継いでおり、青木門下より胡弓を表看板とする演奏家も何人かあらわれ、宮城道雄門下の中井猛は大胡弓奏者を多く育成している。また大阪系、京都系、藤植流もそれぞれ継承されている。 作曲では「現代邦楽」の進展と共に、唯是震一の「雪人形」「胡弓協奏曲」、中島靖子の「紅葉狩」、柴田南雄の「潤月棹歌」、牧野由多可の「胡弓三章」など、邦楽、洋楽の作曲家による新作曲も生まれている。 このように、江戸時代後半に大きな展開を見せた胡弓ではあるものの、むしろ明治以降は一般のみならず三曲界の中においてすら冷遇されて来たと言っても過言ではない。また音楽学者による研究も行なわれているものの、いまだ充分とは言えず、また「胡弓」という呼称の濫用を許してしまうような甘さが見られる。そのような中において、独奏楽器としての胡弓の可能性を追求した青木嘉女野の姿勢は高く評価されるべきであろう。
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胡弓之栞 (こきゅうのしおり) |
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明治27(1895)年に刊行された、胡弓演奏の教本、手引書。これ以前に出版された胡弓の教本、手引書は現在のところ知られていない(三味線や近世箏曲の最も古い手引書、楽譜には江戸初期の寛文4(1664)年に初版刊行された「糸竹初心集」がある)。ただし胡弓の専門書としては文化8(1811)年に江戸で刊行された「政島流本手組掃弓雅吟集」(森岡正甫著)があるが、楽譜は記載されていない。いったいに日本音楽の公刊楽譜はあまり存在せず、楽譜は一般に個人的、私的な忘備録ていどにしか使用されなかった(歌詞のみを収録した「唄本」はきわめて多く頻繁に刊行されている)。その原因としては、一つには西洋音楽の五線譜のような、統合的な記譜法が近世の日本音楽に存在しなかったこと、また当時の芸道がすべて教授システム的に秘匿性を維持するため口伝を重視する体質であったこと、また胡弓や地歌、箏曲の専門家が盲人であったことなどが指摘できるだろう。それでも箏や三味線の楽譜は江戸時代を通じてしばしば出版されている(「三絃独稽古」「箏曲大意抄」「絃曲大秦抄」などが有名)が、胡弓の公刊楽譜に関しては現在知られている限り皆無である。 本書は東京の博文館より「音楽全書」として全部で六編刊行された内の第五編で、著者は瑞穂主人・百足(むかで)登。巻末の広告欄によれば音楽雑誌記者となっている。なお、「百足」を「ももたり」と記述する書も多いが、本人自身は「音楽全書」の他の書中で「むかで」とルビをふっているので、ここでは「むかで」を採用している。東京での出版なので、記述は四絃胡弓向け(四絃胡弓の調弦は高音二絃が同音であるので、実質的には三絃胡弓も同じ)。 内容は、第一章「理論」において 一・「皷弓の事」(楽器の説明) 二・「胡弓扱方の事」 三・「胡弓感所(勘所)の事」 四・「調子(調弦)の事」 五・「音符の事」 六・「皷弓小史」 となっている。 「皷弓小史」では、藤植流胡弓本曲12曲の曲名と歌詞のみの紹介、及び「胡弓の三筋と四筋の由来」を掲載。 第二章「歌曲」は楽譜で、「春雨」などの端唄、「丹後の宮津」などの民謡、「鞭声粛々」などの詩吟、「九連環」のような明清楽(みんしんがく)、「六段」「八千代獅子」などの地歌、箏曲など、計34曲の譜を収録。楽譜は各絃の勘所にイロハの文字を当てはめた独自の記譜法を考案している。 比較的簡易な教本であり、本格的な楽曲の収録は少ないが、胡弓史上初の一般向け公刊教本であり、その後も長く胡弓教本の出版をみないので、たいへん貴重な書といえる。 |
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胡弓楽 (こきゅうがく) |
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日本音楽の一ジャンル。胡弓を主奏、または伴奏に用いる非劇場音楽のうち、主に芸術的音楽として発展して来たもの。江戸時代中期には成立、盲人音楽家を中心に発展、伝承して来たので、同じく盲人音楽家の専門ジャンルであった地歌三味線楽、箏曲と交流著しく不可分の関係をなす。江戸時代より今に至るまで胡弓楽のみ専門の演奏家はほとんどおらず、多くの胡弓奏者は地歌、箏曲の演奏家を兼ねているが、胡弓をもっとも得意とする人物も少なくなく、流派、系統としては名古屋系、大阪系、京都系、藤植流、松翁流、宮城系がある。過去には政島流も存在した。地歌三味線楽、箏曲、尺八楽と共に「三曲」に含められる。 胡弓楽のレパートリーには次のものがある。 1.胡弓本曲(鶴の巣籠、千鳥の曲、岡康砧など) 2.胡弓を主奏、またはパートとする明治以降の新日本音楽、現代邦楽曲(秋韻、湖辺の夕、雪人形など) 3.地歌三味線楽曲(八千代獅子、虫の音、長等の春、萩の露、黒髪など) 4.箏曲(六段の調、みだれ、摘草、白菊、石山源氏など) 1、2は胡弓本来のために作曲されたものが圧倒的に多く、3、4はもともと胡弓のための曲ではなく、後世合奏用にパート付けされたものがほとんどで「外曲」ともいう。ただし外曲も胡弓楽の重要なレパートリーである。 なお「越中おわら節」のような民謡や、門付など民俗音楽に使われる胡弓曲、「相の山」など劇場音楽の胡弓曲は胡弓楽には含まれない。 |
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最後の胡弓弾き (さいごのこきゅうひき) |
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童話作家新美南吉 ( にいみ・なんきち 1913 - 1943 )による童話。昭和14年5月から「哈爾濱日日新聞」に連載された。旧正月になると 、三河(愛知県東部)のある村では 、鼓や胡弓の巧い農民が二人づつ組になって門付(かどづけ)の旅に出る。主人公木之助は12歳になったので胡弓を習い、鼓の松次郎と組んで門付を始める。数十年が過ぎ二人は年老い、門附も次第に流行らなくなった。門付にたずさわる人間も少なくなり、最後には木之助一人で門附に出かけるようになる。二年ぶりに町へ門付に出た木之助は、胡弓をいつも聴いてくれていた町の味噌屋の主人が亡くなっていたことを知り、仏前で主人の供養にと一心に胡弓を弾く。その帰り道、聴き手のなくなった胡弓など持っていて何になろうと、古物屋に売り払う。しかしすぐに後悔し、買い戻そうとするが倍の値段をふっかけられて買い戻せず、失意を味わう。 この文芸作品は優れた童話であると共に、胡弓を用いる門付について知ることができる貴重な資料でもある。原の調査によれば、長野県内各地の古老の話にも、明治頃正月となると胡弓などの楽器を弾く門付が来ていたという。長野県高遠町ではかつて祭囃子に胡弓が加わっていたと言われるし、富山県の「おわら節」や「麦屋節」などに胡弓が使用されるように、すくなくとも名古屋を中心とする中部地方では、民俗芸能においても各地で相当胡弓が親しまれていたことが推測される。 新美南吉は大正2年愛知県半田町(現・半田市)に生まれた。本名は正八、4歳で母を亡くし、8歳のときに母の実家に養子に出された。北原白秋や巽聖歌などに師事して、河和第一尋常高等小学校、安城高等女学校の教員をしながら、童話だけでなく多くの詩や小説も残した。しかし結核を患い、昭和18年、29歳で世を去った。「ごんぎつね」「手袋を買いに」「おぢいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」 などが代表作品。 「新美南吉童話集」へのリンク |
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検校(けんぎょう) |
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室町以降、歴代幕府に盲人の自治的組織として公認された「当道(とうどう)」における男性盲人の官名のひとつ。当道の制度としては更にさかのぼり鎌倉時代、後宇多天皇の在位中(1275年頃)に確立されたとされる。本来「検」は「あらためる」、「校」は「考える」の意。 当道での盲人の官位には検校、別当、勾当、座頭の4官があり、検校はその最上位。これらの官位はすべて金銀で購入できるもので、更に16階73刻という細かい位に分けられていた。検校は権(ごん)検校、正検校、総(惣)検校の三位があった。組織内部での階級序列は厳しかったという。 当道の本部役所は「職屋敷」と呼ばれ京都にあり、寺社奉行の管轄下にあるがかなり自治的な運営をし、当道に属する盲人を統括支配していた。その中枢の「惣検校」は盲人の総取締として検校の中から選ばれ、15万石の大名に匹敵する社会的地位と格式 を持っていた。これらの社会制度が金銭による購入を条件としているとはいえ、盲人の社会的地位 、職業を保証していたことは間違いなく、一般に当道の検校たちの社会的地位は高かった。たとえば奥州平藩の八橋検校、尾張徳川藩の吉沢検校など、その才能を買われ音楽家として大名に扶持を与えられ召し抱えられた人や、代官、旗本、公家、豪商などがパトロンとなった人もいる。いっぽう優れた音楽家として有名でも、経済的に恵まれず検校となれずに勾当など下位にとどまった人もいた。 また官位はほとんど京都で授与されるが、そのために各地の盲人が京都まで旅をした。つまり江戸時代には盲人でも旅ができるよう交通事情などもある程度整っていたことが伺える(一時江戸に京都職屋敷の業務を代行する「惣禄屋敷」が設けられ、関東八州の盲人はここで諸手続きが出来た)。 いずれにしても江戸時代の音楽の発展は、これら検校をはじめとする多くの盲人音楽家の存在抜きに考えることは出来ない。音楽家として身をたてる場合、検校の本来の表芸は「平曲(へいきょく=平家琵琶)」であるが、江戸時代には三味線、箏曲、胡弓が主役となった。しかし江戸時代にも波多野検校、前田検校、荻野検校、麻岡検校など平曲をもっぱらとした検校もいた。音楽以外としては按摩や鍼灸も検校等盲官の専業であるが、塙(はなわ)保己一のように学者として名声をはせた人もいる。また庶民金融業を営む人もおり、盲人保護のため幕府により一般の金貸よりも高い利息が許されていた。このほか、当道ではないが、元禄頃の水覚という盲人は、竜樋ポンプを発明して鉱山業の発展に寄与したり、からくりによる砂車や早船、海中に沈んだ銀塊の引き上げ技術の考案など、技術家として活躍したという。 胡弓の名人、演奏家として知られた検校には八橋、政島、藤植、腕崎、山登、吉沢、山沢、寺島、二代菊池らがいる。地歌、箏曲の大家としては上記のほか石村、野川、柳川、北島、佐山、生田、藤永、継橋、市浦、山田、山勢、山木、松浦、菊岡、八重崎、光崎、幾山、津山などの諸検校が有名。勾当としては鶴山、峰崎、三橋、石川、藤尾、在原、国山らが名曲を残している。 当道、職屋敷は明治4年に廃止され、官位もなくなったが、その後検校たちが結成した私設団体には現在でも検校位を発行しているところもある。 なお、すべての盲人が当道に所属したわけではなく、他にもいくつかの盲人組織があり、当道と対立することもあった。九州の筑前盲僧琵琶を奏する盲人の座、薩摩盲僧琵琶を奏する盲人の座などが有名であり、また女性の盲人は別の組織に属した。旅芸人として暮らした瞽女(ごぜ)もそのひとつである。 |
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参考文献
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「ヴィオル概論」 1994 (1687) ジャン・ルソー著 関根敏子・神戸愉樹美共訳 アカデミア・ミュージック 「胡弓之栞」 百足登著 1895 博文館 「箏曲と地歌の鑑賞」 藤田斗南著 1947 誠光社 「標準音楽事典」1966 音楽之友社 東洋音楽選書 「箏曲と地歌」 東洋音楽学会編 1967 音楽之友社 東洋音楽選書 「唐代の楽器」 東洋音楽学会編 1968 音楽之友社 「箏絃事典」 石瀬雅之著 1973 前川出版社 「胡弓 日本の擦絃楽器」 平野健二監修 1976 フィリップス 「中国高等植物図鑑 第五冊」 中国科学院北京植物研究所主編 1976 科学出版社 (中国) 「中国音楽詞典」 中国芸術研究院音楽研究所編 1984 人民音楽出版社(中国) 「邦楽百科事典」 吉川英史監修 1984 音楽之友社 「韓国の伝統音楽」 チャン・サフン著 キム・チュンヒョン訳 1984 成甲書房 「アジア音楽史」 1996 柘植元一・植村幸生編 音楽之友社 「遊牧民から見た世界史 国境も民族もこえて」 2003 杉山正明著 日本経済新聞社 |
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