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B.胡弓はどこから来たか?
あらゆるリュート属擦絃楽器の祖ともいいうる奚琴が生まれたのは、日本からそう遠くない中国北部、遼寧省、内蒙古の草原地帯であったと私は推察している。これはすでに唐の時代には中国にも伝えられていた。しかし日本にも朝鮮半島にもすぐには伝来せず、特に我が国の場合、その後江戸の初期に胡弓があらわれるまで、千年の時を待たねばならなかった。
平安中期以降、我が国と大陸との交流は疎遠になりがちではあったが、まったく往来が絶えたわけではなく、民間の交易や道元のような仏教僧の渡中などもあり、それなりの行き来もあった。新たな楽器や音楽が伝えられなかったとは言い切れない。
たとえば11世紀初頭、宋の人魏哥が来日、方響(ほうきょう=かつて奈良時代に伝わった雅楽器で、鉄の板を縦に並べた鉄琴のような打楽器)の奏法を改めて伝えた記録がある。このころすでに宋の文献には奚琴、胡琴があらわれるから、それらが伝えられた可能性がないとは言い切れない。しかし、もしもたらされていたとしても、それが我が国に根付かなかったのは言うまでもない。
多くの地域で、なぜか擦絃楽器は撥絃楽器よりも格の低いものとされていたようで、音楽史の表舞台に登場するのが遅かった。撥絃楽器よりもはるかに後発であることもある。しかし、その音が人々の心をとらえて離さなかったことも事実で、こうして現在世界中に数多くの擦絃楽器が存在している。日本の胡弓にしても同じだろう。
ここでは、謎に満ちた胡弓の由来について考えうるルートを検証してみたい。
朝鮮半島のヘーグム〜胡弓の可能性 日本に最も近いといえば朝鮮半島であり、ここの擦絃楽器ヘーグム(奚琴)は、キタイまたは中国から奚琴が伝えられたものである。この、朝鮮のヘーグムが伝えられて胡弓になったと考えることは出来ないだろうか。当然高麗朝や李朝と日本との交易、交流はあったし、高麗末期には倭冦が横行した。ことに桃山時代、豊臣秀吉の朝鮮侵攻(1592年、1597年)により李朝の陶工が多く連行され日本に磁器焼成の技術が伝えられたり、捕虜の儒者から朱子学が伝えられたのをはじめ、李朝文化が流入している。しかしヘーグムが日本に伝えられた形跡は今のところ見られない。またヘーグムは胡琴の系統であり、胡弓とはかなり形状や奏法を異にする。したがって可能性としては低いと言える。
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李朝世宗(セジョン)王(在位 1418〜1450 )時代の奚琴(ヘーグム)
「世宗実録」巻132より(「韓国の伝統音楽・チャン サフン著・成甲書房刊」より転載) |
ヨーロッパのレベック、ヴィオール〜胡弓の可能性 中世西洋音楽史の研究家である横田庄一朗氏はレベック起源説を提唱している。レベックは中世ヨーロッパでよく用いられた擦絃楽器で小型の琵琶状をしており、桃山時代の平曲家(琵琶法師)にも取り上げられやすかったのではないかと言う。その後三味線が琵琶に代わるようになって、胡弓の形も三味線に類似したものになったというのが横田氏の説である。実際、1664(寛文4)年に発刊された、箏、三味線、一節切の初の手引書「糸竹初心集」に、「らへいか」という名の琵琶に似た三絃の弓奏楽器が琉球にあり、それが三味線になったという解説がある。「らへいか」とはレベックのことであろう(ポルトガル語でラベーカ、レベーカ)が、おそらく切支丹の楽器などと書けば差し障りが出るのを危ぶみ、琉球とした可能性もある。
また、初期の胡弓の演奏図(「2.歴史概略 A.江戸初期」参照)では、弓を「上手使い」の方法で持っているが、これは当時膝に置く形から胸に当てるフォームへと変化していたレベックと共通 する。
1562(永禄5)年には豊後の切支丹寺院で大友義鎮が、また1581(天正9)年に、織田信長が安土の切支丹寺院で、神学士の演奏による擦絃楽器の演奏を聴いた記録がある。これはレベックといわれるが、ヴィオールである可能性もある。この頃すでにスペインにおいてヴィオールが成立しており、たとえばドイツに生まれフランスで活躍したカスパール・ティーフェンブルッカー(1514頃〜1570頃)はヴィオールの製作家として有名、またスペイン生まれでイタリアを中心に活躍していたディエゴ・オルティス(1510頃〜1570頃)はヴィオール奏者兼作曲家、理論家として有名であり、ヴィオール曲や宗教曲を残している。信長らもその作品を聴いたのかも知れない。
レベックは三絃のものが多いのは胡弓と共通 するが五度調絃であり、ヴィオールは通常六絃だが四度調絃であり、調絃の点では胡弓に近い。いずれにしても当時西洋の擦絃楽器が入って演奏されていたことは間違いないし、教習も行われていたと想像される。ちなみに、三味線の祖型が堺にもたらされたのも1562年とされ、また後の近世箏曲につながる筑紫箏の大成者である賢順(1534〜1623・八橋検校の師である法水の師)が、明人鄭家定に琴(きん=七絃琴)を習ったのが1561年のことである。
タイのソー・サム・サイ 〜胡弓の可能性 一方、当時日本と東南アジア諸国との交易から、シャム(現在のタイ)のソー・サム・サイや、ジャワのレバーブなどラバーブ系擦絃楽器がもたらされた可能性も考えられる。東南アジアの陶磁器もこの時代多数日本に入っている。15世紀、マラッカ王国が交易の中継拠点として急成長し、トルコ、エジプト、インドから中国、琉球に至る広い範囲の商人が集まった。また同時代南インドでヴィジャヤナガル王国がやはり交易の中継地として栄えた。さらに同じ頃、尚巴志によって統一された琉球が、明はもとより日本、朝鮮、マラッカ、アユタヤ、マジャパヒトなどと盛んに交易をして繁栄した。こうしてアラビアから南インド、東南アジア、琉球と東西を結ぶ「海の道」の交易路が発達した。このことから、東南アジアに広がるラバーブ系擦絃楽器はアラビアからムスリム商人によって各地に伝播したのではないかと思われる(異説もある)。ソー・サム・サイがタイに伝えられたのは14世紀のスコタイ時代であったという。16世紀になると日本人も交易に従事し、シャムに日本人町が生まれるのは1620年前後、元和の頃であり、この時期までにシャムの楽器がもたらされたとも考えられなくもない。あるいはずっと前に、これら東南アジア系の椰子胴楽器が当時広く交易を行っていた琉球にもたらされて胡弓(くーちょー)となり、それが更に本土の胡弓となったと見ることもできる。
モンゴルの馬頭琴〜胡弓の可能性 あるいはモンゴルの馬頭琴、あるいはキール・フールなどを起源とすることもまったく考えられないわけではない。16世紀の北アジアではタタールが栄え、しばしば明も北虜南倭に苦しめられた。日本とこのタタールとの接触も考えられる。清の文献には「火不思(コブス)」という名の楽器が見えるというが、これは今日でもカザフスタン等で使われているコブズのことだろう。またモンゴル西部のトルグート族の楽器キールフールは二絃だが丸胴で両面皮張り、糸巻も左右から差し込む方式であり、初期の胡弓に似た形状をしている。またじっさい日本民謡の一形態である「追分」は、モンゴルの歌謡に非常に似ていることが指摘されているが、もし追分がモンゴルから北回りルートでもたらされたものだとすれば、馬頭琴かキールフールも一緒に伝来し、それが胡弓となった可能性もないわけではない。ただ、とすればやはり追分と共に胡弓が使用されていると考えるのが妥当であり、可能性はやや低いと見るべきであろう。
明の胡琴〜胡弓の可能性 中国の音楽は、近世としては江戸時代の初期に明楽(みんがく)が伝えられ、三都の儒者や武士を中心にもてはやされたが、ここでは擦絃楽器が用いられていない。江戸中期には心越により琴楽が伝来する。しかしこれは琴(きん=七絃の絃楽器)の独奏だけで他の楽器は用いないし、この時点ですでに胡弓は行われていた。胡琴、提琴などの擦絃楽器が使われるのは幕末文政年間に伝えられた清楽(しんがく)である。
ただ、藤植流胡弓本曲に「唐子楽」という曲があり、中国の擦絃楽器は清楽伝来以前から知られていたと考えるべきであろう。中国では明代には胡琴がかなり広まっていたとされる。安土・桃山時代にも明との交易は行われていたし、倭冦も多く明の沿岸部を襲った。また明末にあたる江戸初期には亡命者も少なからず来日したから、明人が当時胡琴をもたらしていた可能性は充分にある。また「胡弓」という語から考えると、胡琴との近さが感じられる。さらに、藤植流の四絃胡弓は高音の二絃が同音に調絃されるが、このような複絃はそれまでの我が国の楽器には見られず、もちろん独自の考案かも知れないが(ただし九州の盲僧琵琶は高音が複絃)、四胡、携琴のような複絃胡琴からヒントを得たとも考えられる。しかし最初に挙げたように胡琴は楽器構造が胡弓とはかなり異なっており、この点が胡琴起源説の最大の難点である。もしも胡琴が胡弓となったとするなら、ヴェトナムのダン・ニーやタイのソー・ドゥアンのように、もっと胡琴の形状や奏法を保持していなければならないと思われる。また、中近東から中央アジア、北インド、東欧にかけての楽器の名称にも様々な交錯がみられる(ペルシアのカマンチェとトルコのケマンチェ、アラブのラバーブとインドのラバーブ、あるいはブルガリアのグスラとロシアのグスリはそれぞれまったく違う楽器である)ので、胡弓と胡琴の名称が似ているからといって、必ずしも同系を意味する証拠とは言い切れない。
琉球の胡弓〜本土の胡弓の可能性
琉球の胡弓がどこから伝来し、いつ頃から使われているのかは謎に包まれているが、16世紀以前に遡ることができるのなら、それから本土の胡弓が生まれたことはじゅうぶんに考えられる。本土の胡弓も元は円形胴であったらしい。三味線の祖型も琉球からもたらされたものとされる。ただし琉球胡弓が椀形胴であること、いつ頃から使われているかという点で疑問が残るが、15世紀前半には尚巴志によって琉球が統一され、明はもとより日本、朝鮮、マラッカ、アユタヤ、マジャパヒトなどと盛んに交易を行い繁栄した。従って16世紀までには東南アジアから伝えられた楽器から胡弓が生まれていた可能性は高い。
以上、胡弓成立の桃山時代末から江戸初期において、確実に我が国に存在した外国の擦絃楽器はヴィオールかレベックと言うことになる。もちろん交易の盛んな時代であったし、他を含めて、いずれを起源とするかについては判断材料がまだ少なすぎるが、私としてはヴィオールかレベック、もしくは東南アジアのラバーブ系擦絃楽器または琉球の胡弓の影響のもと、胡弓が生まれた可能性が高いと考えたい。
こうして、日本からもそう遠くない内蒙古、遼寧のあたりで生まれた奚琴が、中央アジアを経由してアラビアに至ってラバーブとなり、南伝してインド洋を渡り、東南アジアを経て日本に至ったか、あるいはアラビアからさらに西漸してユーラシアの西の果てにたどりつきレベック、ヴィオールとなり、再び東に伝えられて胡弓となった。いずれにしても千年に亘り、ユーラシアをぐるりと廻る壮大な旅の果てに、胡弓という楽器があるわけである。
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