1.起源
最初に胡弓が文献に現れるのは江戸時代初期であり、三味線に比べるとやや遅い(三味線は安土・桃山時代に原型が渡来)。室町時代末期の1540年頃に胡弓が現われたとする記述もある(「詳説総合音楽史年表・教育芸術社」)が、何を根拠にしているのか明確でない。いずれにしても胡弓がどのような起源、経緯で生まれたかについては不明である。胡弓の起源については学者、識者、研究家により、
1.中国の胡琴系の楽器を起源とする説(町田嘉聲)
2.琉球の胡弓を起源とする説
3.東南アジアの擦弦楽器を起源とする説
4.ヨーロッパのヴィオールを起源とする説
5.ヨーロッパのレベックを起源とする説(横田庄一朗)
等の諸説があり、確定されていない。胡弓の濫觴期は世界史的に見れば大航海期の後半にあたり、世界の情勢は錯綜していた。日本も鎖国以前には世界各地と広く交易を行っており、当時各地から入ったカステラ、カルタなどの文物がこんにち伝統文化化していることを考えれば、どの説も否定できない。
のみならず南北に長い日本列島は、古代よりアジアの文化が南北様々なコースを通って東へと伝播した終着点に当り、胡弓についてもはっきりした由来が不明なだけに、いくつもの伝来の道筋を想像することができる。地理的に言えば1.が有利であるが、楽器の構造、奏法、調弦法からみると3.4.5.の方が類似点が多い。
形状や奏法の点で胡弓に比較的近いのはインドネシアのルバーブ、タイのソー・サム・サイ、ミャンマー、カンボジアのトゥロ、ティベットのゲンカ、モンゴルのモリン・ホール(馬頭琴)などである。いっぽう中国の二胡や京胡、韓国の奚琴(ヘーグム)、ヴェトナムの弾二(ダンニー)、タイのソー・ドゥアン等、胡琴系の楽器と較べると、構造、奏法ともに縁の近さはあまり感じられない。ここで擦絃楽器の起源と伝播、および胡弓の伝来について、いくつかのルートとその可能性を考えてみたい。
A.擦絃楽器の種類、起源と伝播
弓擦楽器と棒擦楽器
絃を擦って鳴らす擦絃楽器は、胡弓やヴァイオリン、ヴィオール、二胡、ラバーブなど、世界各地に馬尾毛を張った弓を用いるものが広く分布している。ここではそれらを「弓擦楽器」と仮称する。また東アジアには木や竹の棒で擦って発音させるものがあり、仮に「棒擦楽器」と呼ぶことにする。
いっぽう形態的な面から見ると、胡弓やヴィオールのように、胴と棹を持つ「リュート属」のものが圧倒的に多いが、軋琴、牙箏、初瀬琴など「ツィター属」のものもある。
それでは、そのリュート属擦絃楽器は一体どこで最初に生まれ、どのような経路で世界に広まったのだろうか。
擦絃楽器の起源と歴史
最古の擦絃楽器
音楽学者の説によると、一般にリュート族擦絃楽器は中東もしくは中央アジアで生まれ世界に広がったといわれる。しかし、その起源を示す何の証拠も、中東や中央アジアに見い出すことができない。
絃をはじいて鳴らす撥絃楽器がすでに紀元前の古代文明から使用されていたのに比べ、擦絃楽器の出現ははるかに遅い。撥絃楽器ならば、誰でも指で弾けば音は出るから、絃楽器の機能としてはもっとも本源的なものといえる。しかし擦絃楽器の場合には、「擦る」ための器具が必要であり、その意味で二次的な発音方法をとるわけで、しかも発された音は持続音であって管楽器音や人声に近いという、絃鳴楽器の中では一種特殊な存在である。この「擦奏」がいつ頃、どこで最初に行われたかは、謎に包まれている。ただし、その発音法、つまり棒なり馬尾毛なりで絃を擦ると音が出るという現象は、偶発的に古くから世界のところどころで知られていたらしい。だが、本格的な楽器に応用され、擦絃楽器へと発展していったのは、おそらくその中のただ一つであろうと考えてよいと思う。
現在知りうる限り、もっとも古く存在したと思われる擦絃楽器は、隋、唐の時代(7世紀)に中国や中国北部の遊牧民族で使用されていた軋箏、奚琴である。両者とも河北あたりで使われたらしく、今でも河北には「軋琴」という軋箏と同様な楽器が使われている。
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軋箏 (あっそう) |
現在のところ文献で確認できる世界最古の擦絃楽器。「旧唐書・音楽志」に「軋箏、以竹片潤其端而軋之」とある。図は宋の「楽書」より |
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| 軋琴 |
現代の中国河北省で使用されている擦弦楽器。10本絃で竹あるいはコウリャンの茎で絃を擦って演奏する。「中国音楽詞典」より転載。この他朝鮮半島には牙箏(アジェン)と呼ばれる7本の絃を持ちレンギョウの枝で擦って発音する類似楽器がある。 |
ただしこれらは棒擦楽器で、また軋箏はツィター属、いわゆる「こと」だが、奚琴は今日の二胡などを含む胡琴に非常に近い形状をしており、竹の棒片で擦って奏するもので、唐宋まで撥絃楽器であったという説明も見かけるが、下図のような形態は擦奏に適したものであり、現代の二胡と同じく、実際にはじいてもまともな音は出にくいと思われる。そもそも北宋の音楽理論家陳暘著「楽書」の説明によると「・・・両絃間以竹片軋之・・・」とあり、少なくとも北宋代には擦奏であったことが分かる。
もっともこの説明は宋代のものであり、遡って唐代も擦奏されていた確証はないが、擦絃楽器である軋箏は唐代に存在していた(「旧唐書・音楽志」に「軋箏、以竹片潤其端而軋之」とある)から、奚琴も擦奏されていた可能性は高い。現在も、河北省近辺では軋箏の子孫であると思われる軋琴が使用されているが、この発音法が地域的な伝統であるとすれば、奚琴の故郷ともかなり近いこともあり、両者の奏法に交流があったと想像するのは容易である。もし撥絃であるとすれば、むしろ絃トウや、奚琴と同じく絃トウから生まれたとされる秦琵琶(阮咸=げんかん)のことではないだろうか。阮咸はのちに霜清や月琴となる。
いずれにしても絃を竹片で「擦」って発音する方法が、唐の頃にはすでに行われていたのは確実である。これをもって、絃楽器擦奏の最古の例と考えたい。
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奚 琴 |
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隋、唐代から中国北部で使用された擦絃楽器。「奚」とはラオハ・ムレン(今の遼寧、河北、内蒙古の、遼河の支流老哈河)一帯に住んでいた遊牧民族。絃の間に挟んだ竹の棒片で擦って奏した(当初は撥絃楽器であったという説明もある)。胴の裏表に皮が張ってあるところは違うが、中国やその周辺に多い胡琴系擦絃楽器の祖型と思われる。奚族のみならず唐朝でも使われていた。陳暘著「楽書」(宋・1103年宮廷に献上)に記載されている画。 |
一方弓擦楽器では、現在最も古く文献に現れるものが10世紀アラビアのラバーブ(アル・ファーラビー著「音楽大全」)と言われている。
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ラバーブを弾くムスリム |
| ラバーブやタンバリンなどでスーフィーの旋舞を伴奏している。このラバーブは最近まで見られた左右の中央部が凹んだ方形胴のもの(詩人のラバーブ)。スーフィーは9世紀はじめ頃から活躍するイスラムの神秘主義で、恍惚状態になるまで旋舞を続けるので有名。サクラーナ博物館蔵 |
こうして、特にリュート属の擦絃楽器についていえば、現在のところ、最も古いものとして7世紀の東北アジアの棒擦奚琴、10世紀の中央ないし西アジアの弓擦ラバーブが認められることになる。この二つが、今日のリュート属擦絃楽器の祖先とみて良いことはほぼ間違いないだろう。
問題は、これらの楽器が別々に生まれたものなのか、それとも起源を同じくするものなのか、また棒擦と弓擦との間には直接的な関係があるのか、ないのかということである。それによって次の3通りの考え方ができる。
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1. |
奚琴起源説 |
ほんとんどすべてのリュート属擦絃楽器の起源は奚琴にあり、奚琴が棒擦から弓擦化し、それが西方に伝えられラバーブ系の楽器となった。 |
| 2. |
ラバーブ起源説 |
ほんとんどすべての擦絃楽器の起源はラバーブにあり、中央アジアまたはアラビアで生まれたラバーブが東方に伝わり奚琴となった。 |
| 3. |
複数起源説 |
ラバーブ系の弓擦楽器と、胡琴系の棒擦楽器である奚琴がそれぞれ別 個に生まれ、後に東漸したラバーブの影響により奚琴も弓擦するようになった。 |
これまで、音楽学者の研究により、2.のラバーブ起源説、または中央アジアからアラビアにかけてのどこかで擦絃楽器が生まれたという説が唱えられて来た。しかし、私は1.の奚琴起源説をとりたい。以下はこの考えの根拠を述べたものである。
奚琴の由来と突厥(とつけつ)との関係
奚琴は、すでに隋の頃から存在していたということ、そして宋代には確実に棒擦であり、それ以前もおそらく棒擦であったと考えられることなどにより、現時点においてもっとも古いリュート属擦絃楽器であると考えられる。ただし、弓擦になるのは後世のことである。
奚琴は「絃トウ(トウは兆の下に鼓と書く)」という、撥絃楽器から生まれたとされる。更に絃トウは、「トウ」という打楽器から生まれたとされる。これは振り鼓、いわゆるデンデン太鼓で、棒の先に1個から3個の小さな太鼓を付け、先端に玉を付けた糸を結び付け振り鳴らす楽器。つまり「絃トウ」とは、そのトウに絃を張った楽器という意味である。たしかに振り鼓の柄を棹として絃を張れば、なるほど胡琴によく似ている。いずれも中国で古くから用いられており、絃トウはすでに秦代 (紀元前221年 - 紀元前206年) に記録がある。またトウは孔子廟の礼楽にも使われる由緒あるもので、現在台湾などで使われるものは鼓面の直径が35cmもあるという。トウは我が国にも伝えられ、使用される例は少ないが雅楽で使用される。また子供の玩具としても親しまれて来た。
絃トウは中国が北方民族の音楽を輸入して作った軍楽である「鼓吹」で使われる撥絃楽器であったという。つまり鼓吹は外来の音楽ではあるが、同じく外来音楽であった「胡楽」とは異なる (隋代には胡楽がおおいに流行し、中国本来の音楽を乱すほどであったので、それを正すためにそれぞれの地域や都市、国ごとに「七部伎」が制定され、唐代には「十部伎」に増えた) 。鼓吹は胡楽とはまた別の音楽として扱われたが、いずれも隋、唐代には盛んに行われた。現代に伝えられていないのでどのような音楽であったのかは想像するしかないが、「鼓吹」の字の通り、主に打楽器と管楽器を用いた勇ましいものであっただろう。はるか後、モーツァルトなどにも影響を与えた、オスマン・トルコの近衛軍団イェニチェリの軍楽隊メヘテルの音楽を彷佛とさせる。実は、この「鼓吹」のもととなった北方民族とはまさに、これからこの中で重要な役割を果たすテュルク族、つまりトルコ系民族なのである。
絃トウは、北方民族によって作られたか、中国で作られたものが北方民族に取り入れられたかしたものと思われる。そして文字どおり「奚」という民族によって、竹片を絃の間に挟んで擦り鳴らすという奏法が、軋箏のそれを元に応用されて奚琴が生まれ、中国にも伝えられたのだろう。唐代には演奏されていたらしく、奚琴の曲の記録がある。
この流れをまとめてみると、次のようになる。
そもそも「奚・けい」は、内蒙古、遼寧、河北のラオハ・ムレン(遼河の支流老哈河・清代以降熱河と呼ばれる)一帯に住んでいた、かなり有力な遊牧民族で、かつて漢 (紀元前206年 - 8年 、25年 - 220年) のころ、匈奴に敵対した東胡と呼ばれる勢力から分かれた鮮卑族の一つという。言語学的にはモンゴル語系統とされることが多いが、同時にテュルク系とツングース系との混血とする説もかなり有力という。この一帯は豊かな草原が広がり遊牧に適し、常に中華王朝と様々な遊牧民族王朝の支配が入れ替わりたち変りしていた。ここで7世紀には奚琴が生まれていたことになる。また鮮卑族は後漢滅亡後になると傭兵として雇われ、徐々に中国内部にも移住するようになった。五胡十六国時代 (304年 - 439年) になると、匈奴が西晋から独立して前趙を建てたのに倣い、鮮卑も中国に国を建てた。随以降は次第に漢民族に同化して行ったらしい。
この奚琴を含め、当時、弓で擦奏されていた楽器は見られない。隋唐の時代には、周辺各地の音楽、楽器が大量に流入した。ことに西方の音楽は広く好まれ、中国で再編成されて壮大な理論と合奏音楽が生み出された。これらの資料は今日でもかなり沢山残されているし、我が国に残る雅楽もその片鱗を伝えている。しかし、これらの中に弓擦楽器を見い出すことは出来ない。一方同時代の西方においては、サーサーン朝ペルシア (226年 - 651年) で使用された楽器の中にも、擦絃楽器は見当たらない。ササン朝を滅ぼして成立したイスラム帝国の正統カリフ時代 (632年 - 661年)、その後のウマイア朝 (661年 - 750年)はもとより、アッバース朝 (750年 - 1258年)でも、その前半(750年 - 804年)においては「アラブ音楽の黄金時代」といわれるほどに音楽が発展したが、やはり擦絃楽器は存在しなかったようである。
インドもまた、古代から音楽文化の発展したところだが、当時やはり擦絃楽器は存在していなかった。世界中のどこにも、まだ弓擦楽器は生まれていなかったと思われる。
この頃、つまり隋唐の時代、奚の地はテュルク族の突厥(とつけつ・583年 - 630年、682年 - 744年)が支配しており、しばしば唐との領有合戦が繰り広げられていた。テュルクは文字どおり、今のトルコ系の民族で、「突厥」もテュルクの音訳であり、古くは「丁零」と書かれ、匈奴と同じ頃にモンゴル高原の北方、バイカル湖付近に居住していた遊牧民族であった。この国は強大な軍事力を誇り、6世紀にはユーラシアの東西にまたがる、歴史上初めての大帝国を築き上げていた。当然奚琴はこのテュルク族にも伝えられたことだろう。
テュルク族の大西進と哲学者アル・ファーラビー
744年には同じくテュルク系であるウイグルが、突厥を滅ぼしウイグル帝国を建てるが、やがてキルギスにより840年に滅びた。その後、9世紀後半から10世紀にかけ、テュルク族が西進、南下をはじめる。気候の悪化が影響しているらしい。それと共に在来のオアシス居住民(もともと印欧語族でイラン系言語を話していた)を巻き込んで、彼らも次第にテュルク化していった。西進したテュルク族は天山の西にカラ=ハン朝を建て、999年には更に西隣のサーマーン朝を滅ぼし、パミール高原一帯を支配するに至る。以後この地がペルシア語で「テュルク人の地」の意味の「トゥルキスタン」と呼ばれるようになる。
この頃テュルク族はイスラームに改宗し、次第にイスラーム世界に浸透していく。たとえばアッバース朝のカリフのもとに送られたテュルクの奴隷、特にマムルーク(奴隷軍人)が出世して高官や軍の司令官になる者があらわれた。こうしてテュルク奴隷から立身出世した者は次々と自分の同族たちを呼び寄せたので、多くのテュルク族がイスラーム中東世界に移住することとなる。哲学者アル・ファーラビー(Al - Farabi・950頃没)もテュルク族の出身であった。イスラーム世界におけるテュルク族の比重はこの後も高まり、ついには政権の中枢を担うまでなっていく。
そもそもアッバース朝7代カリフ、アル・マームーン(在位 813年 - 833年)は学問芸術を奨励し、バグダードに「バイト・アル = ヒクマ(智恵の館)」という研究施設を設立、優れた学者を集め、ギリシア語、ペルシア語、シリア語、サンスクリット語などの文献をアラビア語に翻訳させ、ここにアラビア・ルネサンスともいわれるイスラーム文化が花開き、哲学、科学、数学などの学術や諸芸術が発展した。この7代カリフと8代カリフのアル・ムウタスィムに仕えた大学者アル・キンディー(Al - Kindi)も、ギリシア哲学、ギリシア音楽理論を学び、はじめてそれをもとにアラブ音楽の理論を考察、研究した。
その後を受け継いだのがアル・ファーラビーであった。彼はファラブ (現在のカザフスタン共和国オトラル) 出身と言われ、中央アジア屈指の大都市であったブハラ (現ウズベキスタン共和国) で学び、901年にバグダッドに出た。哲学、数学、音楽、科学の大学者として広く知られ、殊にアリストテレスの研究で世界的に有名である。また彼はアル・キンディが進めた音楽理論の研究に更に磨きを加え、大著「音楽大全(キターブ・アル = ムースィキー・アル = カビール)」を編纂、その中にはじめてラバーブに関する記述があらわれる。この中でラバーブは絃を他の絃もしくはそれに似たもので擦奏する楽器で1絃または2絃、フレットはなく、調絃は2本絃の場合3度、あるいは4度、5度とされている。これがラバーブに関する最古の文献である。
奚琴が西漸してラバーブに?
ここで重要なことが見えてくる。これまでの要点をまとめてみると、まず、10世紀以前には奚琴とラバーブ以外、リュート属擦絃楽器が存在した証拠が今のところ見つからないこと。そしてラバーブについて最初に記述したのは10世紀前半に活躍した学者アル・ファーラビーであるが、彼はテュルク人であったということ。そのテュルク人は9世紀から10世紀にかけて東方から移動、移住して来たこと、そして更に遡ればテュルクは7〜8世紀には「突厥」とよばれる、歴史上最初のユーラシア世界帝国を築いており、その版図の中に遊牧民「奚」の地も含まれるということ。またその当時中華は唐王朝であり、奚琴はこの頃から使われていたということである。
つまり、テュルク民族を仲立ちとして、奚琴とラバーブにつながりが生ずることになる。これはこれら二つの楽器がもともと同一のものであったことを示唆するものと考えられないだろうか。ラバーブは皮張りの比較的小さな胴に、差し込み式の長い棹を持つが、このような形状を持つリュート族絃楽器は西方にはそれまで見られないようであり(古代エジプトにはややこれに近い絃楽器があった)、なによりも奚琴に似ている。また奚琴の絃数は二本、ラバーブのそれは一本から二本という点も、一致を見せる。
このようなことから、おそらく、テュルク族によって奚琴が西方に運ばれ、ラバーブになったのではないかと想像できるのである。
ラバーブと騎馬遊牧民との関連について、16世紀フランスの自然科学者ピエール・ベロン (Pierre Belon 1517年 - 1564年) が著わした旅行記「記憶に残る珍しい数々の事物の考察 (Observations de plusieurs singularitez et choses memorables)」(1553年) に、エジプト (当時はオスマン帝国の治下) の擦弦楽器に関する興味深い記述が見られる (ジャン・ルソー著「ヴィオル概論」・1687年刊より)。それによれば、弦は一本か二本で、馬の毛が撚らずにそのまま張られていて、棹は非常に長く、胴は平たい箱のようで、ナイル川で獲れる魚の皮が張られており、胴の下には地面に立てるための鉄の長い棒が突き出ている、という。この擦絃楽器がラバーブであることはおそらく間違いないであろうが、弦が馬の尾毛を撚らずに張ったものであるという点、これは現代でもモンゴルの馬頭琴など中央アジアの騎馬遊牧民の擦弦楽器に見られる。中近東ではウード等の撥絃楽器の弦にはおそらく当時からガットを使用していたと思われるから、馬尾毛の弦の存在はラバーブと騎馬遊牧民族とのつながりを強くほのめかすものであると考えても良さそうである。東アジアでは古くから楽器絃には原料として絹を使った。しかし騎馬遊牧民にとって絹は大変な貴重品であり、代替品としてもっとも身近にあるものは馬尾毛であったであろう。もちろん遊牧民であるからガットも身近なものであろうが、馬尾毛に比べれば各段に製造の手間がかかる。ただし、12世紀におけるモンゴルの影響も視野に入れなければならないかもしれない。
竹との関連
逆に奚琴がもっと西方で生まれ、奚族によって中国へもたらされたと考えられなくもない。しかしその頃西方での擦絃楽器の存在を示す証拠はないし、「トウ」から「絃トウ」を経て奚琴が生まれたという経緯にも無理な点が感じられない。また竹片で擦奏されたということは、やはり遅くとも同じ唐代には存在していたツィター属の棒擦楽器、軋箏との関係が考えられると同時に、奚琴が生まれたのが、竹材が手に入りやすいところ、または自生する地域であった可能性が高い。また「楽書」の図を見ると、奚琴の棹の部分は竹製で、根元を上部にしてそのまま使っており、後の李氏朝鮮の図でも同じである。もっとも「楽書」の絵は中国に入ってからの奚琴で、本来の奚琴は棹が竹製ではなかったのかも知れない。ただ東アジアにおいて、奚琴を含む胡琴類以外のリュート属絃楽器で、棹が竹から作られるものはない(たとえば三絃、月琴など)のに、この類のみ竹製である(今日では木製も多いが京胡などは今でも竹製)ということを考慮すると、楽器というものはそう簡単に素材が変るものではないから、もともと奚琴の棹が竹で作られていた可能性が高いと思われ、竹との縁はかなり強いと考えなければならない。そうなれば、竹の分布しない中央アジア以西で奚琴が生まれたとは考えにくい。
竹類は東アジアから東南アジア、ヒマラヤ東麓の、温帯から熱帯にかけて分布するイネ科の植物で、長江流域以南に種類が多く、北には自生が少ない。黄河方面まで自生を拡げているものは、斑竹(Phyllostacys bambuoides)くらいである。これが奚族の本拠地である遼河流域一帯にまで分布しているかは、現在のところ分からないが、日本で栽培されている竹類も種類によって−18度から−30度の低温に耐えうるから、ごく中国中原に近い奚の地ならば竹類の自生も考えられるし、無かったとしても地理的に言って竹の豊富な中国から入手することは容易であっただろう。京胡では棹に甘竹(Phyllostacys nigra)を使用しているようだが、これも充分耐寒性があり、少なくとも北京あたりでは栽培が可能と思われる。
また現在でも、ラバーブ系擦絃楽器には、棹が円柱状で糸倉も連続して同じ円柱状を保っているものものが多く(撥絃楽器の素朴なものにも棹が円柱状のものはあるが、少なくともある程度進化、整備された撥絃楽器の場合、棹の断面 はカマボコ型で、円柱状のものはまずない)節様装飾や頭頂部に疑宝珠様の装飾が施されているものも少なくないが、これらは奚琴の竹製棹の名残り、遺制である可能性がある。
やはり奚琴は文字どおり奚族によって、絃トウから生み出されたと考えて良いのではないだろうか。それが唐へ伝えられるだけでなく、テュルク族にも広まったと考えられる。ところがテュルクが西方に移動するにつれ、竹材が入手しにくくなる。いっぽう、弓や馬は遊牧民族の必需品であり、ごくありふれたものである。こうして弓に馬尾毛を張ったものを竹片の代りに使用することがはじまり、またそれが演奏に適していたので、アル・ファーラビーの記述にあらわれるまでの間に、広く定着したのではないだろうか。また弓が使われるようになると、絃の上から当てる奏法に変化したのだろう。
楽器名称の音韻的な共通性
さて、「奚」は漢語で奴隷という意味だが、日本も「倭」と呼ばれたように、中華文明は漢族以外の民族には蔑みの意味を込めた当て字をしていたからで、本来はもちろんそんな字義とは関係なく、もともとそれに近い発音を持つテュルク−モンゴル語であったのだろう。現代北京語では「シィ」に近い発音(xi)だが、漢音で「ケイ」、呉音で「ゲイ」と発音し、唐の頃もそれに近い発音であったと思われる。「琴」は漢音が「キン」、呉音が「ゴン」で、現代北京語では「チン」に近い発音(qin)である。いっぽう、テュルク語族の一つであるウイグルには、ギジャックという名の擦絃楽器があるのをはじめ、中央アジアから西アジアにかけ、キール(Kil)、ケイチャク(Qeychak)、ギチャーク(Ghidchak)、ケマンチェ(Kemance)、カマンチェ(Kamance)などの呼称を持つ様々な擦絃楽器が広く分布しており、これらと「奚琴」との間に、発音上の共通性が見られるように思う。「琴」は漢語であるからともかくとしても、「奚」はもともとテュルク−モンゴル語であったであろうから、ウイグル語やトルコ語の呼称の中に残っても不自然とは思えない。「ラバーブ」はむしろ、それ以前から西アジアで使われていた撥絃楽器の名称であろうといわれており、ここに挙げたギジャーク、ケマンチェなどの呼称の方が本来の名に近いと思われる。となると、ドイツ語の「ガイゲ(Geige=ヴァイオリン)」も同源である可能性すら出てくる(「擦絃楽器の種類と伝播 1.ラバーブ系の擦絃楽器」参照)。
当時の国際商業語としては、ウイグル語が使われていたという。楽器の名称もウイグル人によって東西に伝えられたことは想像にかたくない。たとえば、正倉院にも残されているハープである箜篌(くご)は当時のウイグル語で qungqau と呼ばれていたらしく、それが漢語に音訳され箜篌となったのであろうし、リュート属の撥絃楽器 qobuz は、現在でも各地でそれに近い名称で呼ばれている。奚琴もおそらく、同じようにその名がウイグル語に取り込まれて、西方へも伝わったのではないかと思われる。
下図は現代エジプトで使われている素朴なラバーブで、玩具に近いもので芸術音楽用のものではないが、かえって原初的なラバーブの面影を留めているように思える。小さく円形の胴、円筒状の棹、棹の先端部の屈曲など、どこか奚琴を思わせるところがある。カマンチェ、ギジャック、レバーブ、ソー・サム・サイなど、ラバーブが伝播して生まれた楽器は多く円柱状の棹を持つが、これも奚琴の竹棹の名残りを留めているからではないだろうか。また、奚琴は糸巻が前方から差し込まれる「前方軫」だが、アラブの1絃ラバーブにも前方軫のものがある。
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| 現代エジプトの玩具的なラバーブ。素朴なものだが、奚琴に似ているといえばよく似ている。(斉藤浩司蔵) |
こうして、北アジアより西漸したテュルク民族により、イスラーム世界にもたらされた弓奏奚琴が、ラバーブとして定着し、イスラーム世界の拡大、1096年に始まる十字軍、モンゴルの活躍、ムスリム商人によるインドや東南アジアとの交易などによって、広く各地に伝えられてゆき、様々な擦絃楽器になっていったと考えられる。
イランのイスファハンにあるハシュト・ベヘシュト宮殿には、1669年に描かれた、カマンチェを演奏する女性の壁画があるが、胴の表は皮貼りで滴型、背面が深い椀型で棹は非常に長く、現在のイランのカマンチェに非常に近い形をしている。
奚琴から胡琴へ
一方中国でも、北宋の音楽理論家沈括(1031年 - 1095年)の著書「夢渓筆談」に、「馬尾胡琴」という名の楽器が登場する。これはわざわざ「馬尾」という語が付加されていることからも、今の胡琴と同様のものと考えてよいと思われる。胡琴にも竹奏があったからなのか、あるいは古く「胡琴」と呼ばれていた琵琶など他の「胡」の絃楽器と区別するためであるのかも知れないが、これが弓奏である可能性はきわめて高い。わざわざ「馬尾」という語が付加されていることからも、今の胡琴と同様のものと考えてよいと思われる。つまり11世紀後半には、中国北宋でも弓奏が始まっているということになる。
この時期、奚にも縁の近いキタイ(契丹)が、中国北部を含めモンゴル高原中央に至る大帝国(遼)(916年 - 1125年) を作る。そして奚の地はキタイの五つの首都格都市「五京」のひとつ中京大定府(ちゅうけいだいていふ)とし、首都つまり政治の中心である上京臨コウ(さんずいに黄)府と、経済の中心で今の北京地方にあたる南京析津府(なんけいせきしんふ)との中間に位置した。南京析津府は、南に接する中華王朝である北宋の都開封をもしのぐ国際経済都市になったらしい。このようにキタイは遊牧民と都市定住民という二重の社会体制をとっていた。また強大な軍事力で南の北宋を圧迫しており、劣勢に立つ北宋は、不侵の見返りとして大量の銀や絹をキタイに奉納した(毎年銀は10万両、絹は20万匹)。キタイ国家はそれを国際交易に転用し、ウイグル商人たちが西方セルジュク朝の諸国家などとの交易にたずさわった。ウイグル人はやはりテュルク系であり、彼らによって弓奏が伝え返されたと想像できる。
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11〜12世紀はじめの北アジア。遊牧民「奚」の本拠地はキタイの中枢にあり、中京大定府という主要都市が置かれていた。強大な軍事力を誇り、南に接する中華帝国北宋から不侵の見返りとしてキタイに献じられた多量 の絹や銀は交易に使われ、ウイグル商人によって西方との交易が営まれた。奚琴はすでに隋唐の頃から存在し竹片で擦奏されていたようだが、弓を使った奏法はまずこの地に流入したことだろう。 |
つまり奚を中心とした一帯は、キタイの中枢部であり、当時東西交易の東の始点、終着点であったといえる。そのような場所であるから、中華王朝北宋よりもはるかに国際的で、西方の文物には早くから接触しやすい環境にあったのであろう。あるいは奚族自体も遊牧民であるから、彼らによって弓奏が始められたのかも知れないが、現時点で分かっている限り、弓奏に関しては中国よりもアラビアでの記述の方が早い上に、竹材の入手難から弓奏が生まれたとすれば、西漸したテュルク族による考案と考えた方が妥当であると思われる。そしてこの時期、北宋では従来の棒擦と、新しい弓擦の二つの擦奏法が、しばらくの間併存していたと思われる。先の馬尾胡琴の記述よりもわずかに後、北宋の末期に陳暘によって編纂された「楽書」では、奚琴は竹片で奏するとはあるが、弓で奏するという記述がないことからも、両者の混在が想像できる。
今でも胡琴系擦絃楽器が基本的に2絃で、両絃の間に弓を挟んで奏する方法を保持しているのは、棒擦奚琴を直接の祖にしていることを物語っている。
また奚琴、胡琴と、少なくとも二種の擦絃楽器が共存していたということにもなる。奚琴は図に見る通り、ほとんど今日いう胡琴の形態をしているし、民族としてみれば奚は胡に含まれるものであるから、奚琴から胡琴が生まれたものと考えてよいと思われる。いったんウイグルで弓奏化し胡琴の形になっていたものが伝え返されたために「胡琴」と呼ばれるようになったのかも知れない。奚琴と、少なくとも近世以降の胡琴の大きな違いのひとつは軫(糸巻)の向きで、奚琴では「楽書」の図のように前から差し込む方式であり、今日の韓国のヘーグムも同様である。胡琴のそれは後方から差し込む形である。
やがてそれが次第に弓奏に統一されていったのだろう。そしておそらくこの頃に奚琴は朝鮮半島(高麗朝中期)へ伝えられた。「奚琴」をそのまま韓国風に音読して「ヘーグム」と呼ぶ。数世紀後に編まれた李朝の音楽書「楽学軌範(1493年)」にも、奚琴は宋から伝えられ木または弓で擦奏するとある。しかし奚琴が本当に北宋から伝えられたのか、それともキタイから直接高麗にもたらされたものなのかは分からない。奚琴は、高麗ではまず唐楽ではなく郷楽で使われていたというから、中国経由ではない可能性もある。また高麗の遣宋使が北宋最後の皇帝徽宗(在位 1100年 - 1125年・画家としても有名)から贈られた数種類の新しい楽器の中には、奚琴の名はないという。「楽書」にも奚琴は「至今民間用焉」とあり、あくまでも民間の楽器であったことが伺われるから、はじめ郷楽で使用されていたことと合わせ、民間ベースで奚琴が高麗へ伝えられたであろうことが推察される。何よりも当時キタイと高麗は直接境を接しており、1010年にはキタイが高麗を攻め首都開京を陥落させているから、この頃に直接伝わっている可能性もある。音楽学者草野妙子氏によれば、ヘーグムの奏法には北アジア、中央アジアの擦絃楽器に共通する点があるという。その後李朝中期には演奏法が変えられ、唐楽の合奏にも加わるようになる。
一方中国では奚琴から生まれた胡琴が元の頃には一般的になったようで、「元史」には明らかに弓で奏する胡琴の記述がある。奚琴は使われなくなったようだが、清には別の形の奚琴があらわれる。胡琴はその後明から清にかけて各地に広がり、更に多くの変異が生まれていった、と想像できる。そのうち二胡は清の頃に生まれたものである。
まとめ
奚琴が生まれた経過と、その後の伝播によりラバーブや胡琴が生まれた経過をまとめてみると、次のようになる。
| 1. |
中国には古代から「トウ」という振り鼓があったが、秦の頃までに、それに絃を張った「絃トウ」という絃楽器が生まれ、北方民族にも使われていた。やがて東胡の子孫で中国北部に住んでいた遊牧民の「奚族」が、7世紀頃までに、「絃トウ」を竹片で擦って鳴らす「奚琴」を作った。竹片は絃の間に挟んで奏された。それは唐にも伝えられた。 |
| 2. |
当時、奚族の居住地はテュルク族の突厥が支配しており、奚琴はおそらくテュルクにも伝えられていたが、その後他民族に追われ、気候の悪化もあり、テュルク族は9世紀から10世紀にかけて西方に移動、それにつれ、東アジアのみに産する竹材が入手しにくくなり、竹片の代りに遊牧民族にとってはありふれた素材である馬尾毛と弓を用いた奚琴の奏法が開発された。また棹も竹で出来ていたので、素材が木に変ったが、竹棹の円柱状が遺制として残った。更に貴重な絹絃の代替品として馬尾毛を張るようになった。 |
| 3. |
10世紀、西方に移動したテュルク族がイスラーム世界に同化、しだいに重要勢力となっていく。アッバース朝イスラーム帝国では、7代カリフの学芸重視により9世紀以降、学術、芸術が発展しており、音楽の研究も盛んであった。そのような中で、10世紀前半にテュルク族出身の学者アル・ファーラビーが著した音楽書に、はじめて弓奏ラバーブについての記述がなされた。つまり、テュルク族が弓奏奚琴をイスラーム世界に伝え、それがラバーブになったと考えられる。遅くとも16世紀まで馬尾毛の絃が (も) 使用されていた。また従来西方で使われていた撥絃楽器にも弓奏が応用され、擦絃楽器の種類が増えた。これらがイスラームの拡大や十字軍、モンゴルの発展などと共に各地に広がり、さまざまな擦絃楽器を生んだ。 |
| 4. |
11世紀にはキタイ(遼)が北アジアを支配し、奚族の地もその中枢地域の中にあり栄えた。キタイの強大な軍事力に対し劣勢であった中華帝国宋(北宋)は、不侵の見返りとして大量の絹や銀をキタイに納め、キタイはそれを交易に利用、テュルク族であるウイグル人が西方との交易に従事した。彼らにより弓擦法が伝え返され、弓擦となった奚琴が中国にも改めて伝わり、馬尾胡琴と呼ばれた。しかし中国は竹が豊富で、奚琴の竹擦に長らく馴染んでいたので、胡琴の弓も竹にならい、毛を絃の間に挟んで奏した。そしてしばらくは弓擦、竹擦が併存したが、この頃奚琴は高麗朝に伝えられた。胡琴は明代以降中国各地に広がり、更に周辺地域にも普及して、様々な胡琴系擦絃楽器が生まれた。 |
また、奚琴をリュート属擦絃楽器の起源とする根拠をまとめてみると次のようになる。
| 1. |
ラバーブ登場までの西方世界に、今のところ擦絃楽器の存在が確認できないこと。一方東方では、弓擦楽器は11世紀まで確認ができないが、棒擦楽器は7世紀には存在していたこと。当時の奚琴が宋代のように棒擦であったかは確証がないが、同時期に棒擦楽器である軋箏が唐代に存在し、竹片で擦奏されており、これをもって最古の擦奏の例と見なし得ること。また奚琴は後に棒擦から弓擦へと変わることから、棒擦と弓擦を結ぶ接点が奚琴にあると考えられること。 |
| 2. |
いくつかの資料をつなぎ合わせると、鼓類の「トウ」から「絃トウ」へ、それからさらに奚琴が成立したという経緯が読み取れ、それが説得性のないものではない、つまり西方からもたらされたものではない可能性が高いこと。 |
| 3. |
奚琴が竹片で奏され、また棹が竹製であることは、竹材が入手しやすい場所で生まれた可能性が高いことを示唆するが、耐寒性竹類の自生する地域は東アジアのみであり、その意味で西方で生まれたとは考えにくいこと。また竹の豊富な中国でも普通 、三絃、月琴など胡琴類以外のリュート属絃楽器の棹には竹を用いずに木を使用するから、もともと奚琴の棹が木製であったものを中国に伝来した時点でわざわざ竹製に変えた可能性は低い。つまり当初から竹製であったものが受け継がれたものと考える方が妥当であり、やはり奚琴が東アジアかごくそれに近い地域で生まれたものと考えられること。 |
| 4. |
隋、唐朝の頃、奚族の地がテュルク(突厥)の支配下にあり、やがてテュルク族は西に移動し、アッバース朝後期にはイスラーム世界に同化したこと。その頃 (10世紀) テュルク出身の学者によってはじめてラバーブの記述があらわれること。またエジプトのラバーブの絃が撚らない馬尾毛であったという16世紀の記録があること。 |
| 5. |
「奚」あるいは「奚琴」と、西方の擦絃楽器「キール」「ギジャク」「キヤーク」「ケイチャク」、場合によっては「ケマンチェ」「ガイゲ」などの名称との間に、ある程度の発音的共通性が見られること。 |
| 6. |
奚琴、ラバーブ共に、差し込み式の長い棹と比較的小さな両面皮張りの胴を持つ点、絃数が奚琴2、ラバーブ1〜2である点で共通性があること。またラバーブ系擦絃楽器には棹が円柱状のものが多いが、これは奚琴の竹製棹の遺制である可能性があること。更に奚琴の糸巻は前方軫式だが、ラバーブにも同様のものがあること。これらにより、形状からいってラバーブが奚琴の要素をかなり強く受け継いでいると考えられること。 |
曲頸琵琶、直頸琵琶、箜篌、篳篥など西方起源の楽器は東方に多く流入したが、たとえば琴、箏、編鐘など中国生まれの楽器は容易に西方へは伝わらなかった。そのようなこともあり、われわれはつい楽器は西方から東漸するものとばかり思ってしまいがちであり、また殊にペルシアや中華王朝、イスラームなどいわゆる大文明の地にばかり眼が行きがちである。リュート属擦絃楽器も、アラビアや中央アジアを起源とする説がいわれている。しかし東から西への動きや、歴史を大きく左右して来た遊牧民の存在や文化にも、もっと検討の余地があるのではないだろうか。
擦絃楽器の種類と伝播
こうして、奚琴 − 胡琴と、ラバーブという、リュート属擦絃楽器の祖先が出揃った。ここでは楽器の形状からその後の伝播の跡を探ってみたい。
楽器の形というものは伝播してもそう容易に別の形になったりはしないので、伝播をたどる参考となる。たとえば日本の各種琵琶、中国の琵琶(ピパ)、アラブのウード、ヨーロッパのリュートはみな形が非常に似ているが、つまりすべて同一の祖先楽器から分かれて広まったことを如実に物語っている。
胴の形状による分類
リュート属の擦絃楽器にも形状にある程度類型性がみられる。特に胴の形状からおおまかに分類してみると、方形・円形胴、椀形胴、瓢形胴、筒形胴、琵琶形胴、半椀半瓢形胴に分けられる。このほかに中間型のもの、過渡的なもの、特殊な例外もあるが、かなり多くのリュート属擦絃楽器はおおむねこの中に当てはめることができる。このほか弓の当て方、指の使い方など演奏方法、姿勢などにもあるていど類型が認められる。
以下、リュート属の擦絃楽器を胴の形状を中心に分類してみる。ただ、特に中央アジアを中心に、インド、東欧、中近東では長い年月にわたり文化の伝達が様々な方向から行われ、民族の去来も頻繁に起こったので、擦絃楽器も様々に交錯しており、また名称にも混乱があり、資料も不足しており、ここでの考察も憶測を中心としていることをあらかじめお断りしておく。
1.ラバーブ系の擦絃楽器
ラバーブはアラブ文化圏のエジプト、北アフリカなどで広く使われた擦絃楽器で、これまで延べたように、もともと中国北部の遊牧民族「奚」によって生み出された奚琴が、トゥルク族によって西漸しつつ竹奏から弓奏へ変化して、西方イスラーム世界へ伝えられたものと考えられる。前述のように16世紀のエジプトでは馬の尾の毛を撚らずに弦としていたことも、現代でも馬頭琴等がそうであるように、ラバーブと遊牧民族とのつながりを強く思わせるものがある。ここで撥絃楽器に弓奏を応用したりするなどして、いくつかの変化を生じつつ、各地へ伝播していったのだろう。椀形胴のものと方形胴のものがあり、前者は「歌手のラバーブ」と呼ばれ、古代ペルシアから存在していた撥絃楽器の形状を受け継いでいるとも言われるが、あるいは奚琴の直系型ではないかとも思われる。方形胴のものは「詩人のラバーブ」と呼ばれる。ラバーブにはもう一種、琵琶形のものもある。この三つの形を基本として、ラバーブ系の楽器には実に様々な形の胴があるが、弓を絃の間に挟まず前方から当てることが、後に挙げる胡琴系と大きく異なる点である。また多くの楽器で響孔が前面に開いていること、表の面の幅または胴の直径が、胴の深さよりも大きいことも特徴である。
ティベットから中央アジア、インド、中近東、東欧、西欧にかけて広がる擦絃楽器の名称には、ラバーブ、レバーブ、レベック、リリカ、リチャック、ギジャク、ギヤーク、ジョーザ、サリンダ、サラング、サーランギ、ゲーンカ、ガドゥルカ、ガイゲ、カマンチェ、ケマンチェなど同一の語源を思わせるものが多い。ガイゲはドイツ語でヴァイオリンを指すが、もともとイタリア語ではグィグァ、フランス語でジーグで、ラテン語系では鹿の腿肉の意味といい、レベックの形が似ているからという。組曲の舞曲の一つジーグもここから来ているという。とすれば、ラバーブ系と直接言葉のつながりはないことになるわけだが、ギジャクなどと同源とする学者もいる。もし違う語源にしても、中国の少数民族の琵琶形擦絃楽器に牛腿琴があり、同じ発想が行われているのは興味深い。
アラビアのラバーブからの変化と伝播を想像してみると、椀形胴のラバーブはペルシアのカマンチェ、インドのカマイチャ、イラクのジョーザ、トルクメンのギジャック、タジキスタンのギジャフ、ウイグルのギジャック、チベットのゲーンカなどに同様な形がみられ、これらが同系統のものであることが想像できる。北アジアからテュルク族によってアラビアにもたらされる途中で分岐した系統ではないかと思われる。一方ヨーロッパの古い絵画にも円形の胴を持つ擦絃楽器が描かれており、中世にアラビアから伝えられたものであろうと思われる。リラとかフィデスと呼ばれたらしい。当然古代ギリシアのリラ属のリラとはまったく別 だが、中国語の琴と同じく、リラという語が絃楽器に広く使われた。これからギター型の撥絃楽器胴を持つものも生まれ、フィデス、フィドゥーラ、フィドル、フィーデルなどと呼ばれた。セルビアから北アフリカにかけてののグスラも、この類が非常に古い形で残っているものと考えられる。
一方アラビアからインド洋を経て、海の交易ルートで広まったと思えるのが東南アジアの椀形胴を持つ擦絃楽器である。ほとんどすべて、胴に椰子の実殻を利用するところが北伝系と異なる。インドネシアのレバーブ、マレーシアのレバーブ、タイのソー・サム・サイ、ミャンマーのトゥロなどを挙げることができ、琉球の胡弓(くーちょー)もこの一群に加えられる可能性が高い。ただしインドネシアのレバーブのみ二本絃で他は三本絃である。
ラバーブと呼ばれる楽器には椀形、方形の他にもう一種、琵琶形をしたものがあるようで、おそらく撥絃楽器に弓奏を応用させたものが始まりだろう。胴と棹が一体化し、胴の表は皮張りとなっており、アラブ圏の北アフリカなどに見られる。一方同じような琵琶形でも表が板張りのものがあり、トルコのケマンチェはその代表である。それが伝わったものがブルガリアのガドゥルカ、ギリシアのリラ、ユーゴスラヴィアのリリカだろう。東欧で広く奏されるグスラは椀形胴と琵琶形胴の中間的な形をしており、過渡的な古い形態を留めているのかも知れない。しかも絃は馬尾毛であり、ギヤークやコブズの影響も考えられる。一方イタリアに伝えられた琵琶型のものはリラと呼ばれ(古代ギリシアのリラとは別 )、ヨーロッパへはもう一つ、北アフリカを通りスペインへ至るコースも指摘されている。レベックの名からもラバーブからの変化であることは間違いないと思われる。また中央アジアのサタールや、牛腿琴や果哈など中国西南部の少数民族にもいくつか似たものがある。
アラブの琵琶形皮張りラバーブは指版の部分も中は空洞となっていて響孔が空き、弓奏用のくびれがあるものがあり、半椀半瓢形胴のサリンダにもつながっているように思われる。なお、マレー半島、スマトラ、セレベスにガンブスという名の撥絃楽器があり、形態的には琵琶形皮張りラバーブにそっくりである。次に挙げるカザフのコブスや清朝の記録にある火布思(コブス)と共通し、広範囲にわたる遊牧民、ムスリムによる文化の伝播に関連があるのであろう。
また、ヨーロッパ最古の擦絃楽器と言われるトロンバ・マリーナもこれに含まれるかもしれない。
これらは棹が短く、胴との区別が明確でないものもあり、皮張り琵琶形ラバーブから変化したものではないかと思える。特にアフガニスタンからインドにかけて使われているサリンダ(サルード、ケイチャックなどとも呼ばれる)はそれが顕著で、胴の中央に大きな弓奏用のくびれが発達し、くびれを境に胴の下半分だけに皮を張る半椀半瓢形の楽器である。アフガニスタン、ネパールのサーランギ(インドのサーランギとは別 )がこれによく似ており、アフガニスタンから北へ向かってタジキスタンのスラング、またキルギスのキヤーク、カザフスタンのコブズとなったようである。サリンダは甲高い音がするが、ギヤックやコブズは馬尾毛を束ねた絃を張り、低い音を出す。この点は同じだが少し形が変ってトゥバのイギル、トルグート族の丸胴のキール・フール、また胴が方形化してモンゴルの馬頭琴へとつながっているようである。馬頭琴は中国にもたらされ瓦鼓琴となる。これらは遊牧民によって伝播していったものであろう。いっぽうインドのサリンダからはサーランギが派生したと考えられる。これらは左手の指使いにも共通 した特徴がある。更にサーランギからエスラージ、ディルルバが生まれている。
瓢箪をタテに割ったような形で、裏は椀状ではなく箱構造の胴を持つ。ヨーロッパのヴィオール属、ヴァイオリン属などだが、14世紀頃からこの形に近いものがありフィドル、リラなどと呼ばれていた。撥絃楽器ビウエラを弓で弾いたことからこの形になったと言われるが、もともとビウエラやギターの胴のへこみは、その祖先の楽器が弓奏であったために、サリンダのように弓で弾き易いように胴の中央にくびれを付けたものの名残りではないかと思われる。つまりヴィオールやヴァイオリンはある意味形状的に先祖返りしたと言えるかもしれない。ヨーロッパでは16世紀以降リラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダモーレ、バリトン、クイントンなど、様々な同系の擦絃楽器が生まれた。なおヴァイオリンは早い時期に南インドにもたらされ、バーラスワーミ・ディクシタル(1786〜1859)により取り入れられ広まり、現在でも南インドの古典音楽を演奏するのにも使われている。
台形や、やや膨らみを帯びるか逆に凹んだ四角い胴を持つもの。アラビアのラバーブにも方形胴のものがあり(詩人のラバーブ)、アフガニスタンのギチャック(リチャック)はそれと同系統のものと思われる。ほかにも東欧の一部のグスラ、モンゴルの馬頭琴、日本本土の胡弓なども方形の胴を持つが、かなり点々と分布しており、前三者を除きそれらを他の形のような直接的な伝播によるものと考えるには問題がある。また円形で両面に皮を張るものにモンゴルトルグート族のキールフールがある。日本本土の胡弓も初期は円形胴であったらしいことが絵画からうかがわれる。方形になったのは三味線の影響ではないかと思われる。
2.胡琴系の擦絃楽器
このグループは隋、唐代以来の棒擦楽器、奚琴に直接源を発していると思われ、、弓毛を絃の間に挟んで奏するのがこれらの特徴であり、またそのために基本的な絃数が二本に限られる(複絃により3本、4本のものもある)。これはもともと奚琴が竹片を絃の間に挟んで擦奏していた名残りであると考えられる。また、楽器の全長に比べ胴が小さく、前面の直径よりも深さの方が大きいこと、皮または響板が前面のみに張られ、裏面は響孔となっていることも、ラバーブ系とはまったく異なる特徴である。
胡琴類に多い形で、円形または多角形の筒形の胴を持つもの。一見ラバーブ系の円形胴に似ているが、一般に胴が前面の直径よりも側面の横の長さの方が大きく、また響面は前面のみに張られている点がまったく異なっている(古代の奚琴は両面張り)。明代以降中国各地にひろがり、さまざまなヴァリエーションが生まれた。漢族だけでなく、多くの少数民族にも大同小異の楽器がある。さらにモンゴルの四胡、ウイグルでは哈密胡琴、チベットの鉄琴、ヴェトナムのダン・ニー、タイのソー・ドゥアン、朝鮮半島のヘーグム、サハリンのトゥンクルン(ティンリン)など、東北アジア、中央アジア、東南アジアにまで同様の楽器が広がっている。モンゴルの四胡は更に西伝してトゥバのブザーンチュに、サハリンのトゥンクルンはアイヌに伝わりウンマトンコリとなったと想像できる。
胡琴類には円筒状の胴以外に、椀形の胴を持つものがある。主に椰子の実の殻を半分に割ったものを利用するので、南方に多い。中国の提琴、椰胡など、ヴェトナムのダン・ガオ、カンボジアのトゥロ・ウー、タイのソー・ウーなどである。牛の角を利用するものもある。
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