1号
2号
3号
4号
5号
6号

 

第4号

2001年2月1日発行

 大変お待たせをいたしました。前号から二年ぶりの発行です。今号では、一昨年の十月に行われた「邦楽同人会」、昨年二月の「新春胡弓コンサート」、三月の「あかつき会」、八月の「邦楽学習グループ合同発表会」の報告等をお届けいたします。


邦楽同人会(一九九九年十月)

 原稿用紙に向って感想文を書くなんて何年ぶりでしょうか。年をとるに従ってときめきもひらめきも鈍くなり、忘れるだけは早いのですが、先日の同人会での「八重衣」の素晴しさは、しっかり覚えています。難曲中の難曲とパンフレットにありましたので、構えて開幕を待ったせいか、長い曲なのに感動と緊張の心地よい気分のうちに終りを迎えていました。先生方の高水準の技が私を夢の世界に引き込んだのでしょうか、おこがましくも、私もいつか「八重衣」を弾いてみたいとの思いにかられました。とんでもない、十年早いと笑われそうですが、夢のまた夢ですもの、お許し下さい。

 お隣りを見ましたら、黒い帽子をかぶられた平井澄子先生がかすかな声で「よかった、よかった」とつぶやきながら、手をたたいていらっしゃいました。私も一段と強く拍手をしましたが、原先生、聞こえましたか?(行徳教室 桜井瑠美子)

八重衣 三絃・原一男   箏・松井美千子先生


新春胡弓コンサート(二〇〇〇年二月)

 「もしもピアノが弾けたなら」ではないが、私は楽器と名のつくものでできるのはリコーダーくらいで、ハモニカも吹けない。なので自在に楽器を操って音楽を奏でる人に接する度に、いつも羨望と憧憬と一抹の悔しさを覚える。

 胡弓を生で聴いたのは今回がほとんど初めてだった。新春の歌舞伎座での、玉 三郎の阿古屋の演奏はこの際カウントしない。最初の出会いが肝心とばかりに、心静かに演奏が始まるのを待った。

 こじんまりしたお座敷で、原先生は弓をかまえると、呼吸を一刹那止め、そして、やわらかく弾き始めた。奏者はここに居る。この音楽はまぎれもなく目の前の楽器から流れている。なのにその事実が信じがたいほど、胡弓は深い深い響きを放ち、私はその音の出所と自分との距離感を測りあぐねた。作りとしては、とても単純な構造物からこんな表現の世界が構築されるのだから、奇跡だ。  

 もともと擦弦楽器の音色には弱い。私の感受性の一番奥の、最もやわらかい部分を直接触れられるような感覚を覚える。ぎりぎりとした切なさが押し寄せてきて、涙腺がゆるむ。喜怒哀楽以外の、静かな涙があることを知ったのもヴァイオリンの音色からだったことを思い出した。

 古典から現代の曲まで一〇曲あまりの演奏を聴きながら、今この瞬間感じている切なさ、感情の隆起を、私もあの音色に乗せてみたい、と思ってしまった。

 もしも、胡弓が弾けたなら。(浅野未華)


あかつき会(二〇〇〇年三月)

 幕がおりた瞬間、「初めて発表会に参加した多くの生徒さんが、次はいつですかと目を輝かせて聞いてきます。」とおっしゃった原先生の言葉が浮かんできました。

 今回、私も初めてあかつき会に参加させていただき、華やかな興奮の中、何ともいえない”至福の時間”を味わうことができました。あっという間に演奏を終え、思ったとおりにならなかった情けなさと共に、またこの「至福の時間」を噛みしめたいという意欲が、私にもふつふつと沸いてきたのです。これが発表会の魅力?!と感銘を覚えた瞬間でした。

 また、胡弓に取り組んでいらっしゃる先輩の皆さんと一緒に演奏できたことも、大変な喜びでした。お稽古を通 じて、皆さんの邦楽への心意気や技術など、さまざまに吸収できたことは、とてもいい経験になっています。と同時に、好きで始めた胡弓でしたが、これまで仕事や日常の繁雑さを理由に、お稽古を休んだり、演奏に集中していなかった自分自身をとても反省しているいま現在です。

 やはり発表会はいいものです。今後は、次回の発表会を目指して、楽しみながら、またもう少し丁寧にお稽古にのぞみ、曲の内容や背景・歴史なども勉強していきたいと思っています。(新宿教室 三浦志津)


邦楽学習グループ合同発表会(二〇〇〇年八月)

 平成十二年の合同発表会が、八月二十七日に東京都北区の滝野川会館で催されました。このような機会を除いては、いろいろな演奏を聴くことも少なく、他教室の方々とはなかなかお目にかかることもないので、とても楽しみにしておりました。

 今回は内輪だけの会ということもあり、和やかな雰囲気の内で行うことができました。ただ、原先生には長時間に渡りご出演いただき、私どもは貴重な時間を得ることができましたが、先生にはさぞやお疲れであったと拝察いたします。先々行う発表会では、原先生に安心して聴いていただける演奏ができればと、私達一同心いたしました。

 地元開催でしたので知人の顔もチラホラ見え、緊張をともないながらも結果 が好評のようでしたので、ホッといたしました。

 皆様、お暑い中ありがとうございました。(滝野川教室 春山理世)

 


ここからは投稿です。浅草教室の角間さんと原先生からいただいた原稿を掲載します。


胡弓に魅せられて

 ここに一冊のファイルがあります。このファイルには、胡弓に関するものがすべてファイルされています。

 最初のページに、「第三回原一男胡弓リサイタル」のチケットとプログラムが入っています。プログラムの巻頭に曲目が書いてあり、AKUGARE、鶴の巣籠、春の夜、越後獅子の四曲が載っています。そしてその次のページに原先生のご挨拶が紹介されております。その文章を今、しみじみ味わいながら読んでいます。

 平成八年十一月三十日のことです。私が原先生の門下生となって一ヶ月目のことでした。この時のリサイタルの感動がいまでも鮮明によみがえり、胡弓の素晴らしさと原先生の人柄の素晴らしさにますます胡弓に深い興味を覚えました。

 原先生の門下生となってから三年半、今回第四十七回あかつき会において、私は荒城の月、北上夜曲、茶音頭、越後獅子を弾かせていただきました。練習不足(毎回そうなのですが)でしたが、演奏が終わった後は、反省とともにすごく充実感があり、日々、時を惜しまず御指導下さった先生に、感謝の気持ちでいっぱいでした。

 まだまだひよっこの私ですが、胡弓を弾くことの難しさに何度もぶつかるのですが、それにもまして第一に胡弓が好き、大好きで、そしてさらに日本における数少ない胡弓演奏家である原先生にめぐり逢えて、御指導を受けられるという幸せ。そしてまた、たくさんの人に日本古来の楽器である胡弓の美しい音色を知っていただきたいという原先生の願いに、大いに共感いたしております。  

 これからもずっと胡弓を続けていこうという思いと共に、私も微力ではありますが、多くの人に胡弓を知ってもらうための活動をさせていただければ幸せです。

 それにしても「何よりもまず練習、さらに練習、常に練習」。原先生のお声がどこからか聞こえるようです。(浅草教室 角間啓子)

 


三味線音楽の器楽的展開について

 三味線は江戸時代を通じて日本音楽発展のパイオニア的役割を担っていました。ただ、邦楽殊に三味線の音楽はほとんどすべてが声楽曲、つまり「歌」です。あらゆる三味線音楽の中で、純粋の器楽曲は地歌の「晴嵐(せいらん)」と「四段砧」だけです。「六段の調」「乱」などの段物は、もともと箏曲ですから本来三味線のために作曲されたものではありません。

そもそも現存で最も古い三味線音楽は、地歌の「組歌」という形式の曲ですが、文字どおり、いくつかの小歌曲を組み合わせて一曲としています。地歌においてはその後「端歌」が生まれ、「長歌」が生まれといったように、その後も歌を中心とした展開が続きます。地歌以外でも、三味線音楽では劇場音楽としての各種浄瑠璃、また長唄といったように、圧倒的に声楽としての作曲が行われて来た訳です。言ってみれば、三味線はあくまでも歌の補助、添え物といった役割から脱却することが出来なかったのです。  

これは三味線に限らず、中世から近世に至る琵琶や箏の音楽にも見られる傾向で、古代の雅楽で器楽曲が非常に充実していたことと対照的です。

 ようやく地歌において、楽器としての三味線の面白さを追求して、器楽性を追求した「手事」を聴かせる曲が生まれたのは、江戸時代も中期に入ってからのことでした。はじめは、例えば「八千代獅子」のような、簡単で歌の付け足しのような存在であった手事が更に発展して、江戸後期にはむしろ手事に重点をおいた幾多の名曲が生まれることになります。またその影響を受けて、幕末には「吾妻八景」「秋の色種」など、長唄でも長い「合方」を持つ曲が作られるようになりました。

 初期の手事物では、まずより古い時代のメロディが取り入れられて手事となっているものがあります。「八千代獅子」が良い例です。更に、叙景的な描写 が器楽的になされて手事が作られているものが増えて来ます。例えば「さらし」「虫の音」など。

 ところが、さらに本格的な手事物の時代を迎えると、早々単純に物事、情景の描写 をしていれば良いという訳には行かなくなって来ます。こうして、器楽的により深い音楽的表現が追求されて行きますが、これは地歌独自のものであったようです。

 例えば、長唄の「越後獅子」ですと、趣向の面白さが聴き所です。もちろんこの曲は歌舞伎舞踊の伴奏音楽ですから、それはそれでとても大切なことで、変化に富んだまことに面 白い曲ですが、あくまでも娯楽性に重きが置かれ、首尾一貫した展開や、思想的な深みといったものは感じられません。  

 いっぽう地歌では、江戸後期になってくると、大阪の峰崎勾当作曲の「残月」や、京都の石川勾当作曲の「八重衣」、幾山検校の「萩の露」などにおいて、手事そのものが音楽的に非常に充実して、声楽の補完的役割や単なる情景描写 、表面的娯楽性を脱却した、内面的な深さ、高踏的な芸術性を備えた優れた名曲が、溢れ出すように多数生まれて来ます。

 これら後期の地歌手事ものの曲は、箏曲の段物、砧物、胡弓や尺八の本曲と共に、もはや近代西洋音楽の著明な器楽曲にも匹敵する、高度な芸術性を獲得しているといって過言ではないでしょう。

 地歌の手事の発達においては、「替手」式合奏法の進展も見逃せない点です。もともと三味線と箏は別 々に演奏されていたものですが、両者を本格的に合奏させることを始めたのは、いわゆる生田流の始祖である生田検校であり、それは元禄の頃のことでした。しかし当時の合奏は、まだ両者がほとんど同じメロディを合わせる(ベタ付け、ユニゾン)方法で行なわれていました。箏と三味線を違う旋律で合奏させるようにしたのは、大阪の市浦検校でした。彼は、当時舶来のオルゴールを聴き、そこからヒントを得たと言われています。

 ご存じのように西洋音楽では中世以降、ポリフォニー(多声)音楽が発達しており、当時のヨーロッパはバロックの後期から古典主義の時代に相当し、大バッハやハイドン、モーツァルトなどに代表される、対位 法、和声がおおいに発展を見た時代でした。

 もちろん市浦検校はそう言った西洋音楽の作曲法、理論を直接学んだわけではありませんが、音楽家として、どのように音が重なるとどういう効果 をもたらすのか、注意深く観察、研究したことでしょう。むしろ芸術家の感性でそれを受け止め、既存の地歌の三味線パートに対する新たな箏のパートとして応用したのです。

 むしろこれが、西洋音楽のようなあらかさまな多音性とは異なった、我が国独自の替手を展開させることになったのです(このような、西洋とはまた違った多音性を「ヘテロフォニー」(異音性)といい、我が国の雅楽やインドネシアのガムランにもその例が見られます)。

 これは同じ頃、絵画において透視画法、遠近法が西洋絵画から浮世絵などに取り入れられ独自の発展を見たことに良く似ていますね。江戸時代がたんなる鎖国の閉鎖的な空間ではなかったこと、そして当時の芸術家達のオリジナリティ溢れる、エネルギッシュな創作態度が分かります。

 ただ、多音的な合奏法は雅楽にもあり、そういったものからの影響もないとは言い切れません。また箏は楽器の構造上多音性に適しており、分散和音のような雅楽由来の奏法も大いに寄与しているということができるでしょう。

 また、同じ楽器どうしが本手、替手に別 れて合奏したり、地合せ、段合せ、更には違う曲同士を合奏させる「打ち合わせ」など、色々な合奏方法が生まれました。

 地歌の場合、作曲者はほとんどが盲人であり、内省的な音の世界づくりが発達するのも当然と言えるでしょう。彼等は自己との対峙の中で、優れた器楽的作品をつくり上げていったと言うことができるでしょう。

 いずれにせよ、これら地歌手事もの作品は、三味線音楽全体の中でも特異な位 置をしめ、江戸時代の音楽文化の豊かな精華として、世界に誇りうるものであると思います。(原一男)


編集後記  

あせらずのんびり通信を出していこうと思っていたら、前号からかなり間があいてしまいました。原稿をいただいていた方々には、大変失礼をいたしました。お詫びいたします。  二〇〇一年がいい年となりますよう。(斉藤浩司)

 

トップへ

 

1号
2号
3号
4号
5号
6号